Remember 4章


 


 対角観察……起  


 強い光。弱い光。
 それぞれが対角へと向かう。一定のスピードで、引き返すことはない。
 それぞれの対角に何が待っているのかを、知らずに、光たちは向かい続ける。
 強い光。弱い光。
 自分たちの運命を知らずに、対角へと向かう。
 強い光。弱い光。
 光は決して途中で消えない。か細い光でも。
 


 対角観察……結


 ***  


 週を追うごとに徐々に遅刻に近づいた俺であるが、今日の俺には余裕がある。珍しい事に目覚まし時計で叩き起こされる前に、俺の目が覚めたのだ。
 何か勝ち誇った様な気分である。今日ばかりは俺は、あの一九六〇年から活躍を続ける、老練のつわものに打ち勝ったのである。
 と、言うことで今、俺は学校へ向かうべく、通学路についていた。五月の半ばに入り、気温も暑くなってきた。中間テストももう終わり、結果も返ってきた。ほとんど、県下一斉テストと同じような成績だった。
 ローファの底で硬いアスファルトを感じ、歩みを進める。ローファでアスファルトを蹴った生堅い音が住宅街に響く。目の前に横切るのはセキレイ。セキレイとは水辺に棲む鳥ではなかっただろうか。
 昭和後期で時代が止まったような住宅街を抜け、やや大きめの道路へと出る。
 駅前の交差点が見えてきた。視界に捕らえた直後、歩行者専用の信号が点滅を開始した。走ろうかと、一瞬考えたが、どう考えても距離が足らない。
 いくらどんなに速く走っても、このタイミングでは間に合わない。信号から今俺の居る場所までは五十メートルと言ったところ。
 俺が今履いているのはローファではタイムは期待できない。仮にローファで俺が七秒台で走ったとしても、おそらく間に合わないだろう。
 走るのを諦め、そのままのペースで歩く。青信号の点滅を見て、信号の近くにいた、まだ数の少ない白峰の生徒の背中が、忙しなく上下に揺れた。
 信号が完全に赤に変わり、信号へと急いでいた生徒の動きが止まり、信号の前で静止した。その間に俺はただ歩みを進める。
 信号にたどり着くと、見知った人の背中を見つけた。黒のブレザーを着た彼女は当たり前だが信号を待っている。
 


「よう、睦月さん」
 


「京平君、おはようございます」
 


「今日は部活、どうしたんですか?」
 


 睦月さんは確か木曜以外は朝練があると言っていた。今日は火曜であるのだから、本来なら朝練がある筈だ。俺が登校している時間は確かに早いが、それはあくまで、いつもより早い、という意味だ。もっとも、それでも登校時間はやや早めなのだが、それでも朝練なら十分に遅刻の時間だろう。睦月さんが遅刻するとは思えない。
 


「ええ、今日は道場に業者が一日入るとかで、今日一日の練習はないらしいです」
 


 睦月さんはなぎなた部に所属している。なぎなた部に業者……とは、多分道場が老朽化しているとか、そんな理由からだろう。
 どうやら聞くところによると、この学校、部活もそれなりに二、三は強いらしく、生徒会もまた、それなりに力を入れているらしい。
それなりと表現したのは、結果が全くでない部活も多々あるためだ。まあ、公立なんてほとんどがこうだろう。
まして、ここは進学校と言えるレベル。活躍しない部活に使う金などない、という事だろう。むしろ、それが部活の活躍の差を生んでいるのではないのか?
 信号が青に変わり、人が流れ出す。と言っても、さほど数は多くはないが。睦月さんと共に横断歩道を渡る。横断歩道を渡ればすぐに、校門へ通ずる一本の坂道。
 若葉の新緑が坂道の空を覆う。気温と共に、季節が徐々に夏へと向かってきている事が伺える。
 黒と白の背中が坂道を登る。その上に構える後者に向かうために。なんでこんなところに学校を作ったのだろう。遅刻寸前になると、ここで、否応なしに坂ダッシュを要求させるのだ。遅刻常連者はさっさと陸上部に入れって事だろうか。
 坂を登り切り、開かれたままの校門を越える。校門付近でしゃべる生徒、ただひたすらに校舎に向かう生徒、グラウンドの方面からぞろりとやってきた坊主頭。それぞれにこの合間を過ごしている。
 そのまま、昇降口にくぐろうとしようとした際、遠くから、中途半端な田舎には不釣り合いな音が、俺の鼓膜を震わした。
エキゾーストノート。
つまり、排気音である。音の低さからして車。二台だろうか。それにしても相当なスピードを出しているのだろう。近くで聞けば相当な大きさのはずである。
 徐々にエキゾーストノートが近付いてくる。いつもの俺なら、朝っぱらから元気な珍走族が暴れている、としか思わなかっただろう。
 しかし、今日は違った。そのエキゾーストが耳をつんざかんばかりにまで近づき始めたからだ。慌てて、昇降口から身を乗り出し、エキゾーストのする方向を見る。校門方面。この近さだと……坂を上っている?
 しかも、生徒は全く慌てていない。それどころか、こなれた様に、昇降口前の階段へと移動しそのまま談笑を続けていた。男子にいたっては、財布から金を出し、何やら博打を始めた。お〜い、それは警察にとっ捕まるぞ〜。
 一人の普通科の男子生徒が、校門によじ登り、自らのブレザーを脱いだ。それを坂に向けて、両手を使いピンと張り。そのエキゾーストを待つ。同時に反対側には、なぜか一眼レフをもった生徒が校門によじ登り、カメラを構えた。
 エキゾーストが最大にまで大きくなったその刹那、エキゾーストを響かせていた車が姿を現した。速い!
 校門を通過した瞬間、ブレザーを脱いだ生徒が、旗のように振り回した。同時に対岸のカメラを構えた生徒が、速写で通過の瞬間をとらえていた。
 刹那響くブレーキ音。タイヤのダストによって巻きあがる煙。駐車場にドリフトターンする二台。
 あの位置に止めると言う事は、教師なのだろうか。二台はスポーツカータイプで、車にはさほど詳しくない俺には車名は分からない。色は赤とシルバーでいかにも高そうな車である。
 ブレザーを振った生徒は、すぐさま校門から降り、反対側に居た一眼レフを持った生徒の下へ向かう。そして、一眼レフをのぞき込み、写真を確認する。その後、着直したブレザーの胸ポケットから、白い布を取り出した。それを見て、男子生徒の反応が真っ二つに分かれた。喜ぶ者、悔しがる者だ。車体色と布の色が一致──シルバーを白とするなら──しているので、おそらく、これをレースとして捉えるなら、勝敗の結果だろう。
 車のドアが開いた音がして、駐車場の方を見る。降りたのは赤の車の方だ。ドライバは若く、二十代前半だろう。大学から卒業して、教師になってすぐと言った感じだ。
色黒で短髪、そしてやや攻撃的な目つきから察するに、体育教師だろうか。少なくとも二年担当の教師ではない。
 生徒の掲げる布の色を、赤い車から降りた教師が見る。手が細かく震えているのが解る。イラついた様子で、それも早足ですぐ隣に停まっているシルバーの車へと向かう。履いた皮靴が俺のローファのそれより上質な音を響かせる。
 シルバーの車の前に仁王立ちする教師。それに呼応して、シルバーの車からもう一人の教師が降りる。これまた若い。赤の車の教師と変わらない位だ。
 


「てめぇ……あの交差点で幅寄せしただろ。俺のNSXを廃車にするつもりか!」
 


 赤の車の教師が吠える。幅寄せ、とはどういう事だろうか。車を寄せて相手を外に追い出す、という意味だろうか。
だとしたら悪質である。と、言うより、そう言う事はサーキットでやっていただきたい。
 


「幅寄せ? 馬鹿言うな、お前がただ単に滑っただけだろ。昨日のお前の幅寄せの方が凶悪だったぞ。あのまま民家に突っ込んだら、どうしたつもりだ? 俺のGT-Rは勿論、人を殺すところだったぞ」
 


「昨日のあれがどこが幅寄せだ! だが、今日のお前のあれは、どう見ても幅寄せだ!」
 


 ぎゃあぎゃあと騒ぎ、まるで子供のような口論を続ける二人。車と言う高額なおもちゃを与えられた、子供そのものである。しばらく二人の子供を眺める。
 シルバーの車、GT-Rと呼ばれたのに乗っていた教師の容姿は、NSXと言う車に乗っていたのに対し、色白で髪が長く冷静に雰囲気を醸し出している。切れ長の目がさらにその感を強めてもいた。
実際大きな声で騒いでいるのは、NSXに乗っていた方だけである。
 ふと、GT-Rに乗っていた方が右手を差し出し、左手首に巻きつけられた腕時計を眺めた。そして、表情が一瞬にして強張った。
 


「おい、やばいぞ」
 


 冷静な方がふと呟く。それに釣られ、熱血漢も自らの腕時計を見る。熱くなっていたが、腕時計を見た瞬間その表情が凍りついた。
 


「俺のタグホイヤー、アイルトン・セナモデルは絶望的な数字を叩き出している」
 


 熱血漢が呟き、意見を求めるように相手を見た。
 


「MT-Gも、俺らを絶望するに値する時間を指しているんだが……」
 


 二人はしばらくの間見合った。
 そしてそのままの沈黙。
 長い。
 


「職員会議に遅刻する!」
 


 二人揃って叫び、職員昇降口に向かって走り出した。走力に差はなく、ほとんど並んでいる。
 


「諸君! 我々は法定速度をしっかりと守っているからな!」
 


「回転数はほとんどフルだが一速だ! 安心したまえ、俺らは書類送検にはならないからな!」
 


 その捨て台詞と共に二人は職員昇降口に消えて行った。賑やかだった校門付近は一気に静まり、元の静寂の朝に情景に戻った。
 校門を見ると、生徒たちが何事もなかったように登校をしていた。どうでもいい事だが、あのレースの様な状況の途中に坂を上っていた生徒は、どこにいたのだろう。木の陰だろうか。
 


「睦月さん……あれ、なんだったんですか?」
 


「赤い方に乗っていたのが、江崎雄太──エザキ ユウタ──先生。もう一つに乗っていたのが、井上卓也──イノウエ タクヤ──先生です。江崎先生は国語の、井上先生は物理の先生です。二人とも剣道部の顧問ですよ」
 


 体育教師風、江崎と言うらしいが国語の教師らしい。少し意外だった。井上と言う教師は物理を教えているらしいが、まあ、納得する雰囲気ではあった。
 


「何で、あんなに子供みたいな喧嘩するんですか?」
 


「それが……」
 


 少し笑いを堪えたような表情を一瞬見せ、口を開いた。
 


「二人とも、幼稚園から同じ剣道道場に行っていたらしんです。まだその時点では仲が良かったらしいのですが……小学生の頃にお互いにライバル視するようになったらしくて……」
 


「それであのままですか……本当に子供みたいですね」
 


「それも仕方ないですよ。大学時代はインカルで四年連続で決勝で当たってますからね。それも結果は二勝二敗。その二人が指導としてついているからか、この学校の剣道部は結構強いです」
 


 四年連続決勝で当たるとは凄い。つまり、インカルの四年間の半分はあの二人が制していることになるのだ。それだけ強ければ、教師ではなくもっと別の職に就けたのではないだろうか。
 たしか串井は剣道部だ。串井の剣道の成績は聞いた事がなく、彼女がどの程度の実力を持っているのかは、未知数だった。今日の昼食辺りに聞いてみようか。
 睦月さんと昇降口で別れ──三年と二年は別方向──、自らの教室へと向かう。階段を上り、二年のフロアへ着く。階段の先にある、自販機が目に入った。校舎が別なのに、いつもここにまで飲み物を買いに来る、白の背中はない。
 自分のクラスに入る。まだ人数が少ない。俺に気がついた生徒は、片陸がこんな時間に来てる! といった表情で見ている。すでに俺は、予鈴と同時に教室へとなだれ込む一人となっていた。
 席替えをしておらず、未だに俺の目の前の席は草加である。ローカル線の宿命、本数が少ないために、電車通学組は朝が早くなる事を強いられる。
 すでに草加は登校しており、俺の前の席でうつ伏せになり、寝入っている。そんな光景を目に入れつつ、椅子を引き出し、座り込んだ。その際に立てた音に反応してだろうか、寝入っていた草加が目を覚ました。
 草加の表情は驚愕、と言ったところらしく、目を丸くして俺を見ている。
 


「片陸……お前どうした? なんでこんな時間に来てるんだ?」
 


「はっはっはっ、どうだ、驚いたろ。俺だって、たまにゃ早く起きる時もあるんだぜ」
 


「サザエさんで、イソノォ! ラクロスしようぜ! って台詞が出るくらいショックだ」
 


 そんなに珍しいことだろうか。と、言うよりそれはあり得ないことの仮定ではないだろうか。パワプロに足と口がついたり、カメが腹筋する並みのことと同じである。なんだかとても悔しい。
 


「まずいな……今日はとんでもない不幸に逢いそうだ」
 


 草加がポツリと呟いた。どうやら俺の、早めの登校は夏に雪が降るとか、竹やソテツの花が咲くとか、そういった吉凶の前兆として捉われているらしい。三週間くらいは余裕をもって登校していたのに関わらずだ。やはり、悪いイメージは先行しやすいと言うことだろう。
 悪いことが起きそうだと、本気で悩む草加。やめてくれ、俺のグラスオブハートが傷つくだろう。俺の心は特注なんだ。フォーミュラカーや花瓶なみに脆いんだ。ガラスの少年で、ガラスの十代なんだ。そんな本気で悩まれると、本当に傷がつく。
 そんな悩む草加を気にしない方向にして、今日の授業の準備を始める。通学鞄から、必要な教科書や辞書などを取り出す。忘れ物は……ないはずだ。いや、英和辞書がない。はて、何故ないのだろうか。
 そこで俺は思い出した。昨日俺は、英語の課題をやっていたことを。多分、教科書やノートと一緒に鞄に入れたつもりが、そのまま机に置き去ってしまったのだろう。
 さて、どうしようか。同じクラスの生徒とは当然の如く打ち解けているが、他クラスとなると串井と葉月位しか知らない。同じクラスの草加、武田に借りるのは当然無理だ。睦月さんに借りるのはなんだか気が引ける。串井は馬鹿だから、どうせ持ってきていないだろう。と、なると、頼るのはやはり葉月であろう。
 幸い、英語があるのは昼休み後の五時間目。葉月の時間に合うかどうかを昼食に聞いて見よう。それが駄目だったら、駄目もとで串井に頼もう。それでも駄目だったら、貸出禁のシールが張っている図書室の辞書を、勝手に拝借してしまおう。無論、黙ってだ。
 俺の前の席で、失礼にもまだ草加が悩み続けている。予鈴十分前のことだった。
 


 ***
 


 昼休みを告げるチャイムが鳴り、草加と武田と共に学食へと向かう。前に草加がどのように、アルバイトで税金取られるまでに稼いだのかと聞かれた事があった。なぜかと言うと、複数バイトを掛け持ちしていたからである。それだけで、と思うかもしれないが、そこは色々な知恵と策略を使ったのだ。例をあげると年齢詐称とかである。無論、人にも言えないような偽装もいろいろとしたが、これは企業秘密だ。バラせば、日本の経済システムが崩壊しかねない。それにしてもバイトと勉強を両立するのが難しかった。
 学食に到着した。まだ、あの戦争状態が勃発する前の状況らしく、楽に食券が買えた。今日購入したのは麻婆丼である。食券を提示し、物を受け取った。席を取るべく、振り返ると、もうすでに串井が来ており、席を陣取っていた。それぞれのメニューを乗せたトレイを持って陣取った席に着いた。
 


「司、早いな。いつから居たんだ?」
 


「前の授業が自習。もちろん、私はチャイム五分前に抜け出したわけ」
 


「お前……、監督の教師にばれなかったのか」
 


「だって、職務怠慢なんだもん。終了十分前に出席確認して消えてたわよ」
 


 それは、確かに職務怠慢だ。この学校の教師は自分の授業には熱心だが、どうも自習の監督になるとその熱気が失われるらしい。かと言う、俺も一度自習になって、その職務怠慢さを体感している。
 串井の前には親子丼がテーブルに鎮座しており、中身をみると、どうやら食べかけのようだ。そのことから察するに、チャイムが鳴る前に食べ始めたことが伺える。学食のおばちゃんもチャイム前に買いに来るのに、不審に思わなかったのだろうか。
 俺を合わせた三人が席に座り、トレイをテーブルに置いた。
 しばらくすると、多くの生徒が学食になだれ込んできた。そして、いつも通りの戦争。怒号が飛び交う。相変わらず、本当にここは学食かと疑ってしまう。たまに悲鳴すら聞こえてくるからだ。
 麻婆丼を頬張りながら、食券売り場付近の混乱を眺める。そこに一人の、療養科の少女の背中が見えた。
 葉月だ。葉月は、混乱している食券売り場を前にうろうろしている。混乱に突っ込もうとするが、直前でやめたりしている。
 まったく、世話の焼ける奴だ。
 席から立ち上がり、右往左往している葉月のもとへと向かう。
 


「で、何が欲しいんだ?」
 


 後ろから葉月に話しかける。
 


「あの、でも、いつも……いつも迷惑かけてますし……」
 


「あのな。気の弱い知り合いが、何かを迷ってウロウロしてたら、そら、手助けすると思うぞ。だがな、今回は珍しく有償だ」
 


 どこか、きょとんとした表情で俺を見る葉月。その表情は小動物めいている。保護欲と、加虐欲に支配される表情である。
 


「この後に、英和辞書を貸してもらえないか? もちろん、いやだったり、次の授業が英語だったら構わない」
 


 その時は、藁にすがるつもりで串井に聞いてみよう。多分、串井は、そんなの持ってる程真面目に見える? とヘラヘラしながら答えそうだが。
 


「英語の授業はもう終わりました。だから、大丈夫ですけど……でも」
 


「よし来た。それで、メニューは?」
 


「……じゃあ、天丼で」
 


 希望するメニューを聞き、現代社会の喧騒をそこにミニチュア化されたような食券売り場前の混乱へと足を進めた。どうやら、早く来ても俺はこの最前線に繰り出される運命にあるようだ。それでも何故か悪い気はしない。
 右手で人込みをなるべく掻き分け、食券売り場の最短ルートを目指す。最短ルートと言っても、真っすぐ、ただし真ん中まで進めばいい話である。
 普段モラルのある生徒は、この時間帯のみ常識という名の拘束具を脱ぎ去るのだ。並ぶなどという行為は知ったこっちゃない。勉強に疲れた連中は、唯一のオアシスとして、学食に癒しを求めるのだ。
 何故真ん中にまで進めばいいのか。最近分かったことだが、真ん中にまで来るとある程度、人の流れができる。それ以上無理に進もうとすると、体力を浪費する上、時間がかかる。
 では、どうすればいいのか。そう、その流れに乗るのだ。
 幾人かの生徒を掻き分けて、人の流れを見つけた。ここが勝負だ。なんとか、流れに乗るようにしながら、後から襲ってくるフーリガンそのものの生徒たちから、自分の身を守らなければならない。ここが難しい。前に進もうとしながら、後ろに意識を払うのである。
 ダブルビジョン妄想の応用だが、さらに手でさり気なく、後発の生徒たちの人込みを掻き分けようとする手を、いなさければならない。
 つまり、三つのアクションを同時に処理するのだ。これが実現すれば、特訓中のトリプルビジョンも夢ではない。
 流れの中腹にまで達し、後方に払っていた意識を前に向ける。ここまで来ると、柔道部とか空手部とかの類でない限り、割り込んでくるのはそう容易ではない。たまに来る程度で、いなす必要はないのだ。
 素早く食券を購入し、次に食券と交換する。ここもそれなりに混雑しているが、滑り込むのが難しくはない。できるだけ前に潜り込み、食券と交換するテーブルが見えた。天丼の食券を置き、今の自分の位置をキープ。
 学食のおばちゃんの手が次々に食券を引き取り、代わりにそれに対応した料理を出す。まだ、天丼の食券は鎮座したままだ。
 おばちゃんの指が天丼の食券をつかみ、料理に姿を変える。トレイを引っつかみ、現れた天丼を乗せベイルアウト。戦線から離脱し、内地へと戻る。
 


「ほれ、葉月。戦利品だ」
 


「ありがとう……片陸君、だんだん学食に慣れてきてるね」
 


「そら、一ヶ月も経てばなれるだろ。葉月、二年目で慣れないほうが異常なんだ」
 


 天丼を手渡し、少しからかう。からかいだが、本気の部分もある。二年かかっても学食のシステムに慣れないとは冗談抜きで異常なのだ。
 葉月と共に、草加らが待つテーブルへと向かう。もう、親子丼を平らげてしまったらしい串井のニヤついた顔が俺らを出迎えた。
 


「カタリ君、そばにおけないね。何? フラグ回収? 何? 調教? 屋上の踊り場で何するの? いひっ」
 


 いひっ?
 


「それで、それで、授業さぼって……成美泣き叫んで……カタリ君ドSだから……いひひっ、首輪……散歩……ちょーきょー……」
 


 壊れたような笑い声を上げ始める串井。いつもの凛とした表情はそこになく、片方の口角を上げて笑うその様は、正直とても不気味だ。かなり不気味だ。ホラー映画でも通用しそうだ。というか、首輪って、どんな妄想をしているのか。
 微笑みと表現するには、あまりにも不気味すぎるものを浮かべている。もはや、ニヤケという表現すら当てはまらない。
 その不気味な表情で串井は何かを呟いている。合間に、不気味な笑い声を漏らしていた。
 聞き取れた言葉の断片を表すなら、羞恥、公開、堕落などと、とても危ない響きの言葉がほとんどである。官能小説に勝るとも劣らぬ卑猥な韻も含んでいる。
 コイツ……危険だ!
 葉月のほうを振りかえると、目を丸くして串井を見ており、武田でさえも珍しく、面食らったような表情をしている。唯一冷静なのは草加のみだ。
 


「おい、草加。大丈夫か、これ」
 


「ああ、気にするな。司が2Dヘンタイワールドにトリップしているだけだ」
 


 何も気にせず、自分の料理を食す草加。2Dヘンタイワールドって……どういうことだろうか。
 


「司の趣味はな、エロゲをすることなんだよ。しかもよ、いわゆる、腐女子って趣向じゃないんだ。もう、男そのもの。恋愛ものから鬼畜ものまで」
 


 さらりと爆弾発言をする草加。
 


「いや、お前。そんなこと公言してもいいのか」
 


「大丈夫だ。司は女子に絶大な人気がある。しかもその趣味も込みで、だ」
 


 この学校は大丈夫なのだろかと、心配してしまう。そんな危ない趣味を持った生徒に人気があるなど、もう、世も末と言っても過言ではないだろう。
 運動神経抜群、容姿も気質も姉御といった感じの串井が、そんなインドアでディープな趣味……いや、性癖をもっているのである。それ以外の言葉に何が当てはまろうか。
 


「それにしても、確かに、片陸、なかなかやるな」
 


 突如として、草加もニヤついた顔になり、箸を止めた。
 何が、と聞きかえそうとしたが、こいつに対してその類の言葉を投げかけるのは、何か癪である。屈辱である。気にくわない。
 未だトリップを続け、ぶつぶつ危険な単語を呟き続ける串井を尻目に、草加の座る椅子の足を払う。丁度、心持ち重心を後ろへと移行させていた草加は、そのまま床へと転がった。
 犯人が俺とは分からないらしい、草加は驚いた猫のように目を丸くして、天井を眺めている。いつもなら、おい、片陸! と言った具合にすぐに俺を非難するからだ。これは都合がいい。
 テーブルに置かれたタバスコを掴む。そして、茫然とした草加に目標を絞った。ターゲットロック。
 素早く草加に近づく。その間に、タバスコのキャップを解放する。
 開け、タバスコ。その炎の一滴を寝転ぶ草加にお見舞いしてやれ。
 


「喰らえ! 名付けて、二階から目薬!」
 


 零れおちたタバスコの一滴は、草加の眼球目がけて、自由落下を始めた。目標に到達するまで、かかる時間は一秒の何分の一。
 俺はその間がスロー再生になり、一秒にも満たないにも関わらず、何秒にも感じた。アドレナリンの効果とはこういうものだろうか。
 


「おいぃぃぃ! ことわざの用法がちがぁぁう!」
 


 そのスローの世界の中、瞬く間に恐怖の色に染まった草加の顔。そして、その渾身のツッコミが俺の耳朶を打った。
 


「ああああああああああ!!!! 辛いものネタに頼りすぎだあああああ!」
 


 直撃した左目をおさえ、いつか見せたような、ブレイクダンスを彷彿させる動きを見せた。
 


「いや、目がっ! マジで洒落にならん! 後生だ……! 水!」
 


 立ち上がり、ラピュタのムスカの様な足取りで、俺に近づいてくる。吐いた言葉は本当に辛そうで、水を求めるアクションも、本当に困った時のそれであった。
 水と言っても、ここにはお茶はあれど、水はないし、どうしようもない。第一、助ける気があったのであれば、最初からタバスコを目に落とそうとはしない。
 ふと、俺の横から伸びる手、その手にはペットボトルが握られていた。キャップの部分を見るなら、未開封である。誰の手だろうか。
 手の主を確かめるべく、その手を視線でたどる。串井だ。いつの間にかトリップから帰ってきたらしい。いつもの凛とした表情である。
 それにしても、串井が草加を手助けするとは珍しい、いつも、俺と一緒におとしめる役をしているのに。
 ペットボトルをひったくる草加を尻目に、串井の表情をうかがった。その視線に気がついたのか、串井がこちらを見る。
 そして、いつも俺と共に草加をハメる時に見せる、あのサディスティックな笑みを浮かべた。
 まさかと思い、草加が急いで開けたペットボトルを見た。内容物は赤い。そんなことを気にせずに目を洗い流そうとする草加。
 


「おい、それは……」
 


 その忠告をするも、すでに時遅し。草加は差し詰め、モータスポーツのシャンパンファイトの勢いで顔に流しかけた。
 赤い液体。シャンパンらしからぬ毒々しい色。見る者全ては、その者の細胞がワーニングと警告することは避けられないだろう。
 


「ぅのう?! これはまさか……」
 


 そう、あのタバスコジュースである。
 草加はペットボトルの内容物を確認しないで、タバスコを洗い流すためにタバスコを流しいれたのである。さようなら、タバスコ。こんにちは、タバスコといった感じである。
 草加はあまりの痛さのためだろうか、いつもの絶叫を見せずにただ茫然と受け取ったペットボトルを見ている。
 ちなみに、タバスコを入れた左目も見開いている。どうやら、痛覚とかそんなレベルの話じゃないのだろう。普通なら、目を開けられないはずだ。真っ赤になった目を見開いたその様は、正直不気味だ。
 ペットボトルとのにらめっこを終え、学食の出口へと歩き始めた草加。右足と右手が同時に出る、とてもぎこちない歩き方である。しかも、細かくチョコチョコしながら歩いているのである。顔は無表情で、体は歩くたび垂直のまま左右に振れる。
 丁度、コンパスを回しながら前に進めるような感じだ。徐々にスピードが乗ってくる。まるで競歩のスピードである。
 そんな不気味な様で歩く草加に、生徒たちは奇異の視線を送る。草加の進行線上にいた生徒は後ずさる。草加の顔を見た生徒は顔が引きつる。
 ずいぶんと散々な反応ではないだろうか。
 


「すこし、やりすぎたかな?」
 


 まったく反省していない声色で串井が呟く。視線は学食の出口に向けている。
 


「ま、三成のことだから大丈夫よね。体は頑丈だし」
 


 酷い言われようだ。
 


「さて、三成の食べかけでも食べようかな。どうせ、昼休み中に帰ってこれないし」
 


 さらに酷いことをさらりと言う。草加、ドンマイだ。正直、今回は少しだけ罪悪感が生まれた。
 気にせずに、草加の頼んだうどんをすする串井。この二人の幼馴染の力関係を表すような光景だった。
 


 ***  


 昼食を終え、早めの解散をした俺らであったが、俺は自分の教室に戻らない。それは何故か。答えは簡単である。葉月から英和辞書を借りるためである。
 と、言う訳で俺は葉月の背を眺めながら、療養科の校舎の廊下を歩いている。普通科の校舎同様、真新しいリノリウムが鈍い光を放っている。
 学級を表すプレートを目に入れると、普通科と違ってクラスを分けるのがアルファベットとなっている。そういえば、葉月が初対面の時言っていた。
 廊下にはどういう訳か、あまり生徒を見掛けない。生徒は皆、教室にこもっているらしい。横目で、引き戸のガラスを見ても、教室内は生徒が授業中よろしくに詰まっていた。
 歩きながらのため、見えたのは一瞬であるが、教室内でどうやら雑談などをしているらしい。ここら辺は、普通科と変わらない。
 葉月のクラス、二年B組と書かれたプレートが掲げられている教室に到着した。
 教室に入るのも何か、気がひけたので、廊下で待つことにした。同じ学校とはいえ、いきなり制服の違う奴が教室に入ってくれば、いくらかは困惑するだろう。
 ふと、療養科の校舎の特徴をひとつ見つけた。それは、異常な程に担架の収納棚が多いのだ。
 廊下を見ればそれがわかる。どういう訳か、各教室の入り口付近に一つ存在しているようだ。
 最近はやりの、廃校になった際の保険として、老人ホームに利用できるようにする為の工夫だろうか。いや、それにしてはスロープなどのバリアフリーが少なすぎる。
 どうも、この学校はミステリが多い。編入手続きの時の書類には療養科なぞ、書いていなかった気がする。そう、学校に初めて来て、睦月さんに教えてもらったのだった。
 第一、療養科と普通科の差異が分からないのだ。葉月の話を聞くと授業内容、その他も全く普通科と同じなのだ。療養科が何故あるのかも、葉月は分かっていない。
 そう考え込んでいると、引き戸が開き、英和辞書を抱えて葉月が帰ってきた。
 


「はい、どうぞ」
 


「ああ、サンキュ」
 


 辞書を受け取り、疑問をぶつける。
 


「葉月、担架の数、やたらにおおくないか?」
 


「ええ、そうですね」
 


「そうですねって……訳を知らないのか?」
 


「不思議だなぁ、って思ったくらいで……何でかなんて考えた事もないです」
 


 まあ、正直のところ、俺が葉月の立場でもそう思っただろう。多分、俺のこの疑問は俺が編入生だから浮かんだことであろう。
 何処か気持ち悪さを孕みつつも、それを気にしない方向に決めた。引き戸のガラスから見える、時計を眺め、現在時刻を確認した。
 休み時間も残り十分。そろそろ退散しよう。
 


「じゃあ、放課後に返す。俺がこっちの教室に行く」
 


 葉月が出てきた教室に指を指す。葉月は一瞬ためらうようなしぐさを見せたが、しばらくして頷いた。
 断ろうとしたのであろうが、結局それを止めたようである。もちろん、借りた方から返すのは常識であるが、どうやら葉月はその常識でさえ自分が迷惑をかけていると解釈しかけたようだ。謙虚もここまで来るともはや病気である。
 じゃあな、と残し、今まで来た道をまわれ右する。葉月がまた放課後で、と返事する。背中でその返事を聞きながら、俺は何時も通り目立つサムズアップで答えた。
 療養科の校舎を抜け、再び普通科の校舎に戻る。建て替えは同時に行われたと聞いているため、両校舎ともまだ真新しい。壁は目が痛くなるほど白く、窓枠やサッシも鏡のような光沢を放っている。
 自分のクラスに到着し、葉月から借りた英和辞書を机に置いた。予習はしているつもりだが、万が一の抜け漏れがあるかもしれないから、必然的に必要となる。
 まあ、普通に持ってくるのが常識なのである。ちなみに、白峰バカツートップの一角、清水は持ってきているところを見たことがない。
 さて、まだいくらか時間がある。どう時間をつぶそうか。草加はまだ帰ってきていない。多分、時間ぎりぎりで帰ってくるだろう。さて、俺一人が楽しめる一人遊びを考えよう。
 一人じゃんけんはボツだ。ディオ様が海底深く沈む棺の中で、一人じゃんけんをしているところを想像してしまったこと以来、そんなディオ様を思うと悲しくて出来なくなってしまった。
   ならば、ベア・グリルスを真似して、サバイバル術を研究しようか。いや、それは危ない。
 彼の行動予想とか言いながら、俺は教室に潜伏しているであろう黒いアイツを貪ってしまいそうだ。酷い味です、長い触角が口の中に刺さってます、とか言いながら咀嚼してそうだ。
 ダルシムの真似してドリルキックを研究しようか。
 ああ、そういえば小学校の時それをやって骨折した挙句、入院先でドリルキックがだめならと、手が伸びるかどうか実験して、肩脱臼、軟骨剥離骨折して入院期間を伸ばしたのであった。
 ガイルのサマーソルトは……いや、あれも真似して頭部を強打。結果脳震盪で失神して、あやうく学校をワイドショウの主役にするところだった。あれは、中学二年の冬だった。
 よくよく考えてみると、俺は一人遊びをすでに幼少期に研究しつくしている気がする。友達と遊びながら、脳内で一人遊びを敢行して、その様子に奇異の視線を貰ったことが懐かしい。
 そう時間をどう潰すかをああでもない、こうでもないと一人で思案していると、草加が半ばおぼつかない足取りで戻ってきた。ちなみに点眼された左目は真っ赤に染まり、充血だかタバスコで染色されたのかが分からなくなっている。
 


「どうした、つらそうじゃないか」
 


「誰のせいだ! あのな! タバスコは冗談抜きでヤバいぞ! 失明だぞ! 失明!」
 


「そんなおおげさな。ほら、あれだよ。出川とかダチョウ倶楽部とか、もっと危ないことやって生きてんじゃん。だから、大丈夫だろ」
 


「奴らはプロだろ! 俺は善良な一般市民だ。あんな笑いにストイックな奴らと比較するな! マジで失明するかと思ったんだぞ!」
 


「ああ、もう、うるせえな! 細かいんだよ、お前は!」
 


「逆ギレですか! 何で、お前がキレなきゃならんのですか! あのな! それに、タバスコ流すためになんでタバスコ渡すんだよ! 火に油じゃねえか!」
 


「それはお前が悪い。考えてもみろ、普通ペットボトルで渡されたので目を洗い流すか? オレンジジュースとかでも目がベタベタして大変なことになるぞ」
 


 ここは譲れなかったので反論をしてみた。第一タバスコジュースは俺のせいじゃない。串井がやったことだ。
 


「……それもそうだな」
 


 草加もその一点には納得したらしい。怒りの表情が少し和らいだ。
 


「そうだろ。さっきの言葉は傷ついた。謝罪しろ」
 


「ああ、すみませんでし……って! なんで俺が謝るんだよ! 悪いのはおまえだろ!」
 


「え? 俺なにか悪いことしたっけ? いじめられない草加なんて、炭酸の抜けたサイダーよりも味気がないだろ?」
 


「俺は砂糖水に負けるのか?! つーかあんた、いちいち気に障る奴だな! 謝罪と賠償を要求しる!」
 


「はいはい。誤字までそっくりにしてまで、どこぞの国みたいな事を言うな。ほれ、予鈴が鳴るぞ」
 


 丁度いいタイミングで予鈴が鳴った。こうなると真面目な草加は、自分の席に座らざるを得ない。
 案の定草加は、文句を言いつつも席に座った。全く、優等生め。ここまで絵に描いたような優等生はそうそういないだろう。
 葉月から借りた英和辞書を何気なくめくってみる。特に何も変哲のない、普通の英和辞書である。ここは何かこう、俺が見てはならないものが入っていることに期待したのだが……いやはや、葉月も何分真面目なのでそれはなかった。
 これは憶測なのだが、仮に串井のものを借りられたとしたら、きっと俺が見てはならないものがいっぱいはさまっているだろう。たとえば、官能小説そのもの文章とか。過激すぎる絵とか。
 まあ、そうだったら、全力で見て楽しんだ後、全力で見逃してしまおう。串井はイジる要素がないし、何よりも変態同盟があるのだ。同盟がないと草加を追い詰めるのが面白くない。
 教室の引き戸が開かれ、英語教師が入室した。
 それまで騒がしかった教室が静まり、授業の雰囲気が形成された。
 


 
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