断片考察……起
僕は考える。他人の希望を作るために、自分に絶望を与える。その行為を。
ごくありふれた人間であれば、いや、そもそも自己愛というものが存在する人間においては、その類の行動を取る人間は少ない。
マザー・テレサを代表するような聖人と呼ばれる者たちでない限りは、見られることではない。
では彼女はどうなのか。絶望を救い、絶望を作った彼女はどうなのか。
もし、彼女がそれを意図して望んだのであれば、間違いなく聖人の類に入る。
しかし、彼女はそれを意図していない。そして、未だに自分が成したことに気が付いていない。だとしたら、どうなるのだろうか。
無意識の選択。無意識に与えた希望。無意識に背負った自らの絶望。
僕は考える。人に知られないであろう、彼女の永遠の絶望を。無意識の聖人の苦しみを。
断片考察……結
***
授業終了のチャイムが鳴り響く。六時限目の授業が終了して、教室は授業中の緊張が一挙に弛緩した。ホームルームに移行する前に、ほとんどの生徒が帰り支度を始めていた。
かく言う俺も、通学鞄に教科書とノートを詰め込んでいる。葉月から借りた英和辞書は鞄に入れずに、そのまま机に安置する。これは手持ちで葉月の教室に持っていこう。
担任の教師が入室し、弛緩した空気も再びやや引き締まった。皆、集中した様子で担任の話す連絡事項に耳を傾ける。時間にルーズな面はあるが、ここら辺の所を見ると、やはり進学校らしさが伺える。
連絡事項を言い終え、さっさと退室する担任。
再び弛緩する空気。
様々なところから、話し声、そして椅子を引く音が聞こえる。
「おい、片陸。ちょっと、野球部見に行かないか」
「なんだ、今頃坊主になって甲子園を目指す気か? 無理だ。あきらめろ。お前の運動神経じゃ、幼稚園児がウサイン・ボルトと百メートルで勝負するようなものだ。まだジャミラになった方がいい」
「あなた……さり気なく酷いこと言ってますねぇ……」
「いやすまん、ユーセイン・ボルトだったな」
「謝るポイントが異常だと思うのは俺だけですか、そうですか。俺に対する侮辱より、ボルトの発音の方が大切なんですか。それと、お前、ジャミラ好きだな」
「いや、ちょっと、一つ噂聞いてさ。それが本当か確かめに行くんだよ。で、片陸は来るの?」
草加の影から現れた武田がそう補足した。
どんな噂なのだろうか、気になるが、残念ながら俺は先約がある。
「とりあえずこの英和辞書を葉月に返してくる。まあ、気が向いたら行く」
そう返答して、草加たちと教室を退出し、すぐさま別れる。昇降口と療養科の方向は真逆であるため、教室を出た直後、必然的に道を違える事になるのだ。
下校のために昇降口へと向かう生徒。それらが俺の向かう方向とは逆に流れを作り、壁を作った。それらの間を上手くすり抜け──と言っても、すり抜けるようなシチュエーションは少なかったが──、療養科の校舎へと足を進めた。
渡り廊下へと校舎と校舎の連結部分、その部分を覆う金具が踏まれて音を立てる。渡り廊下を歩いている時点で、黒い制服は見られなくなり、向かってくるのは白い制服のみであった。
療養科の生徒たちは、よほど普通科の生徒が珍しいのか、そのほとんどが俺に視線を集めた。確かに、普通科の生徒が療養科の校舎に渡った所は見た事がない。だからといって、おかしなものを見る目で見なくてもいいのではないか。傷ついてしまうだろう。
しかし、それは一般論だ。脳内構造が異常である俺にとって、この視線は何よりもうれしい。この奇異の視線、きもちいい! 感じちゃう! 武蔵小金井くんが現実に居たら、友達になれそうだ。
恍惚とした俺の表情を見てかどうか、療養科の生徒は心なしか俺を避けて歩いているような気がする。そんなに離れないで! でも、それが気持ちいいの! ああ、なんかもう、テント張っちゃいそう!
頬と耳が熱い。呼吸も若干荒い。多分、興奮による上気のせいだろう。俺に対する生徒たちの視線はますます冷たくなり、まるで、汚物にたかるウジかハエを見るかのようだ。
当たり前だ、俺が至高の美少女なら男子生徒がルパンダイブを決め込むだろうが、生憎俺は野郎だ。しかも、男の娘とかいうタイプではない。冷たい視線を送るのは当然である。
──それが、却ってそれが俺の快感になるとも知らずに……クックック……愚か者どもめが……!
内心で不敵な──痛いとも言う──笑みを浮かべ、絶対零度に近い視線の中を闊歩する。
おお、人が二つに分かれて、まるでモーゼになった気分だ。いや、俺の場合は江頭と言うべきだろうか。どちらにせよ、伝説級の人物になりきった気分だ。おかげで、人混みをすり抜ける必要がなくなった。快適である。
暴走したエガちゃんの感覚を楽しみながら、予想していたよりも早くに葉月の教室に着いた。なかなか気持ちのいい時間であった。どうやら、すでに帰りのHRは終了しているらしい。
いったん、昂った精神状態を落ちつかせる。流石にこの状態で教室に乱入する愚行は避けたい。想像していだきたい、いきなりクラスに上気して息を荒くした男が乱入する光景を。
これで右手にサンタフェとかを握りしめていたら犯罪者確定である。フェミニストが喜んで俺を公開処刑するだろう。社会的な死が待っている。
流石の俺も、フェミニストに虐められて社会的な死を迎えるのはごめんである。生憎、その手の趣味とその手の本は持ってないが、息を荒くした男が乱入する光景は、グロテスクな事この上ない。
心拍数が元に戻る。血圧、体温も低下。アドレナリンの放出も収まっただろう。よし、いたって平常。システムはオールグリーンだ。
教室の引き戸に手をかけ、思いっきり……と行きたいところだが、流石に何様だとツッコミが来そうなので、ごく普通に開けた。
「学級閉鎖か? 葉月。昼休みから六時限までになにがあったんだ。みんな、強烈なインフルエンザにでも感染したのか?」
抗生物質や強力な薬を使うと、ウイルスも生き物だ、死んでたまるかと、それに対抗すべく、ウイルス自体が強くなる。敵もさるものながら、生きるのに必死ですな。
そう、コメントしたくなるような状況である。なにせ、葉月以外、教室に誰も居ないのだ。まったく、高校生は高校生らしく、放課後の雑談で華でも咲かせなさい。
「いや、そうではなくて……」
「うん? インフルエンザではない? まさか……Tウイルスか!」
それは一大事だ。まさか、実在していたなんて……ばら撒いたのはどこの輩だろう。まさか、友愛、移転、トラストミーと、なにかとうるさい政府にうんざりしたアメリカが憂さ晴らしにばら撒いたのだろうか。
「あの……そもそも学級閉鎖じゃないです。みんな、帰っちゃいました」
「なんだ、そうなのか。しかし、随分と帰り支度の早い奴らだな。青春なんぞ、知らんとでも言いたげだ」
「どうして、そこで青春が出てくるんですか?」
「いやぁ、だって、高校生は放課後に雑談するものだろ? ほら、あいつはあいつの事が好きだとか、奴に年上の彼女がいるとか、家族の愚痴言ったりするとか、奴は妹と出来てるとか、奴はホモでロリコンだとか、草加は実はジャミラだとか……そういった感じの雑談さ。青春を感じないか? 夕焼けをバックにしてさ」
「確かに感じますけど……後半三つはどう考えてもおかしいです」
「最後以外は冗談だ。ああ、あとこれ。ありがとな」
手に持っていた辞書を葉月に手渡す。葉月は受け取り、自分の机だろうか、その上にあった辞書を鞄の中に入れた。俺と葉月を除けば、誰一人として居ない教室に、葉月の鞄のファスナーの乾いた音が響いた。
教室に取り付けられた時計を見た。時刻は三時半。この時間帯なら誰かしら教室に居ると思うのだが……この教室は御覧の有様である。
葉月が鞄から視線をあげた時、その顔にはどこか寂しそうな表情を浮かべているように見えた。夕焼けもあいまって、どこか切なさを感じさせる。
気のせいだろうか? 気のせいでなければ、何故、葉月はそんな表情を浮かべるのだろうか。
「なぁ、葉月」
「はい?」
「この後、なにか予定あるか?」
「いえ、特に……」
「じゃあさ」
一呼吸を置いてから、今さっき思いついた提案を口にした。
「少し遅くなったけどな、俺、部活見学をしようと思うんだ。ちぃとばかし付き合ってもらえないか?」
何故こんなことを思いついたのだろうか。いや、愚問だな。なんてことない、ただの暇つぶしだ。
それに、強いて言えばなんだか葉月が寂しそうに見えたからだろうか。まあ、どうだっていいさ。
葉月は少し考えたようなそぶりを見せた後、僅かにうなずいた。肯定の意。
あと、葉月さん。草加はジャミラってこと、俺、否定してないよ? さらっと認めたんですか?
***
暇つぶしに葉月と二年生としても、そして新入生のそれにしても時期の遅い部活見学をすることになった。
部活見学と言っても、新入生のように部長に断りを入れて見るのではなく、少し離れたところで見ると言った具合だ。断りを入れて、挙句、名前を覚えられて無理やり入部させられたらたまらない。
まず、俺と葉月は外が練習場所である運動部を見に行った。名前を挙げるなら、野球、ソフトボール、サッカー、陸上、硬、軟式テニスなどである。
広くない校庭に、テニス部を除くそれらの部活がひしめき合っているため、いまにも事故が起こるのではないのかと、見ているほうをハラハラさせる何かがあった。
特に校庭の占有率の少ない陸上部は、度々野球部の放つ打球の爆撃を受けており、よくこれまで事故が起こらなかったものだと感心させられる。
「すごい、ですね」
その校庭の状況を、校庭につながる階段の上から緑色のネット越し見て、葉月はぽつり呟いた。
どうやら、目の前の光景に圧倒されているらしい。
金属バットの発する鋭い音、サッカーボールを蹴る何とも形容しがたい音、陸上部の雷管に、主に野球部員による美声とは言い難い地を這うような掛け声。校庭はそんな音に支配されていた。
俺たちを横目に、時々階段を上り下りする運動部員は、例外なく、こちらに好奇の視線を送ってきた。どうやら、普通科と療養科、黒と白が並んで校庭を眺める光景が珍しいらしい。
「こんなもんでしょ。ただ、注意しろよ。気をつけないと、野球部の艦砲射撃に直撃するからな。たまにオーバーフェンスならぬ、オーバーネットの快打を叩き出すからさ」
「片陸君は、前の学校で帰宅部だったんでしょ?」
「ああ、そうだな」
「なんか、慣れているような気がしますけど……」
葉月が俺の様子に疑問を持ったようだ。自分と似たような状態なのに、なんで驚いていないのかと。そんな疑問らしい。
「いや、むしろ、お前みたいに驚いている方が、珍しいと思うんだけど」
「普通ですよ。皆こんな、熱気を持ってやっているんですから」
「熱気、ね」
確かに運動部全員熱気を持って練習をしている。それは否定できない事実だ。その熱気に圧倒される。これもままあることだし、おかしくはない。
しかし、それはやる気のないヤンキーばかりが集まる学校でない限り、どこの学校でも同じで、それが普通だと思う。
甲子園常連校とかの野球部の練習はこれ以上の熱気があるだろうし、取り立ててこの学校が熱気にあふれる練習をしているわけではない、と感じる。
第一、 中学校の部活もこれくらいの熱気はあろう。
そういうことを考えると、余程葉月はこんな場所とは無縁な学校生活を送ってきたのであろう。
「葉月、一応聞くけどさ」
「はい?」
「中学のころ、何か、いや、運動部に入っていたか?」
おそらく答えはノーだろう。こんな初々しく、グランドを見つめるような人間が中学に、運動部を入っていたとは、かなり考えにくい。
「いえ……」
「だろうな」
「でも、」
だから、葉月がその返答をつなげて来た時には驚いた。消極的な葉月のことだから、中学時代も何一つとして、部活に入っていなかったと思っていたからである。
でも、と、つなげたからには、何かしろの部活に入っていたのだろう。
「一応、家政部には入っていました」
「文化部か。家政っていうと、裁縫や料理か?」
「はい、そうです」
葉月が家政部……想像に難いと思ってきたが、そうでもないようだ。意外と自然に想像できる。なんとなく、料理や裁縫が上手そうだ。
おとなしい、という葉月の性格がそこにプラスアルファされているためだろう。
「へえ。家政部ね。料理とか得意なのか?」
「いえ、そんなに……」
「そうなのか? 結構できそうなイメージだけどな。家政部で料理はあまり作らなかったのか?」
「料理は顧問の先生がそばに居て、その上、学校の許可が下りないと火が使えなかったんです」
「ああ、そういうことね。でも、部員は居たんだろ? すんなり許可下りそうな気がするけどな」
「えっと、私以外みんな幽霊部員で、実質部員は私一人でしたから」
葉月がはにかみながら言う。いやいや、はにかむポイントが違うと思うぞ。
「なんで、中学校でそんなに幽霊部員が大量に発生しているんだ……」
「私の中学、全員部活に入らなきゃならなくて……部活の籍だけをとるのに使われていたのが家政部らしいです。だから、顧問の先生もどこかの部活と掛け持ちで……」
顧問の教師もさほどやる気がなかったというわけか。
毎年、全員が幽霊部員と化す中、いつしか学校もそのことを認めたのだろう。だから、熱心でない教師を家政部の顧問に当てたのではないか。そんな風に邪推してしまう。
結果、悪循環を生み、次々と家政部に幽霊部員が集まってしまう結果となったのではないだろうか。
「で、まさかと思うが」
葉月の性格からして、俺の脳裏にある一つの危惧が浮かんできた。それを葉月に聞きたいのだが、どういうわけか、もう確信染みた予感が存在している。
「お前は三年間一人で活動していた、と」
葉月がどこか困ったような笑いを浮かべながら頷く。つまり、それは俺の危惧していたことが的中したことを意味した。
「でも、裁縫は得意です! 三年間、ずっと頑張ってきましたから」
両の手を握り締めて、珍しく力強く俺に主張する葉月。俺は自分の両の手で頭を抱えたい。
容易に想像できる。西から差す夕暮れの光によって、赤く染まった家庭科室に一人で縫い物をしている葉月を。空と家庭科室と同色のハイライトを顔に浮かべながら、だ。
そして、その表情はハイライトの柔らかい色とは別に、どこか寂しげなのだ。
誰も居ない家庭科室がその原因なのだろう。
「葉月さ、友達の誰かを引っ張ってこようとか思わなかったのか?」
「友達いませんでしたし……それに」
葉月が一度そこで言葉を切り、一拍タイミングを置いて口を開いた。
「それに、私は友達を作ろうと思って部活に入ったんです。そしたら、皆来なくて……」
再び困ったような顔で笑う葉月。困惑と笑みを表現する、ある意味器用なその表情は、どこか悲痛な色が見える。
友達を作りたい。そんな引っ込み思案な葉月が勇気を出して入部をしたら、どういうわけか、葉月以外すべてが幽霊部員と化すその惨状。表情を曇らせる理由としては充分すぎるだろう。
ほかの部員と同じく幽霊部員になれず、一人だけの部活になってもなお、一人だけで活動を続ける葉月。根がまじめなのと、心のどこかで皆がいつか戻ってくると信じていたのかもしれない。だから、幽霊部員になれなかったのだろう。
上級生になっても、新入生の勧誘など葉月の性格からして、上手くいくはずもなかったろう。また、何人か入ってきても、同じく幽霊部員と化し、再び一人の部活が始まる。
なんて寂しいのだろう。それをこの葉月成美という少女は三年間も感じてきた。とてもじゃないが、俺には耐えられそうもなく、幽霊部員になってしまいそうだ。
もしだ。もし、俺が同じ中学でその光景を見ていたらどうするだろう? 入部はしなくとも、ちょくちょく顔を出すのだろうか?
俺と葉月の間に沈黙が流れる。グラウンドから相変わらず流れる、運動部の出すノイズがその間を支配している。
葉月が部活の空気に圧倒されているのは、おそらく慣れていないための驚愕だけではないだろう。
自分が中学時代に得ることが出来なかった、部員同士の友情と親密さ、それらに対する憧憬と羨望といった感情も存在していただろう。
少しでも葉月にその感情を晴らしてもらいたい。俺は何故かそう考えていた。その為には何をしたほうがいいか。すこし考える。
「葉月」
間に流れた沈黙を晴らそうと、少し大きめの声で葉月に呼びかけた。
「はい?」
「移動しようか。中の部活にさ」
校舎ではなく、体育館や格技場の方を指で差す。つまり、室内の運動部を覗こうという意。
葉月が持っているであろう、部活への憧憬と羨望を満たすための答えはまだ浮かばない。
「体育館履きを持っていきますか?」
「いや、大丈夫だろう。見学する分には裸足でも。フロアに入らなきゃ問題はないと思う。それに、別に外から見ても構わないだろ」
「そうですね。わかりました」
二人で体育館への最短距離を歩く。
徐々にグラウンドから流れてくる練習の雑音は小さくなっていった。
***
体育館の前に来ると、中からバスケットボールの弾む音と、シューズの底が床を摩擦する高く短い音、時折響くホイッスルのヒステリックな音色が辺りに存在感を示していた。
開けっ放しの頑丈そうな大きな鉄製のドアから、体育館の湿気を大いに孕んだ熱気が流れ出ており、通る者の感じる不快指数を跳ね上げている。
体育館からやや離れた場所にある格技場からは、バスケ部の音に押されてはいるが、剣道部かあるいは柔道部の掛け声が漏れ出ていた。
この学校の格技場は二つ存在し、一つは大きいが古く、あちこちにガタが来ているような印象が強い第一格技場と、大きさはやや劣るが、どうやら校舎と共に新築したらしい、かなり新しく、二階建てとなっている第二格技場だ。
この内、第一格技場なぎなた部と合気道部が使用し、第二格技場は柔道部と剣道部が使用することになっているらしい。
両格技場はとなりあっている。なぎなた部に所属する睦月さんの今朝の言によれば、今日、第一格技場は補修か何かのため午後は使用禁止とので、なるほど、確かに真新しい格技場から音が聞こえるのに対し、古い格技場からは物音一つしない。
俺と葉月は体育館の中の様子を外から眺めた。とはいえ、狭い入り口からでは、中の様子を伺うのはなかなか難しく、めまぐるしく行き来するバスケ部員が瞬間的に視界に入る程度であった。
その奥、体育館の半分をネットで仕切られたステージ側にちらちら見えるのはバトミントン部で、部員がリズムカルに体を弾ませながらプレイしているのが伺える。
「よく、見えませんね」
葉月がポツリそう漏らし、俺もその言に頷いた。フロアに入ってしまえばいいのだが、生憎と体育館から、熱気のほかに、部外者が入るのを拒むオーラも発生しているのだ。
「フロアに入れればいいんだけどな。でも、バトミントン、バスケで半面ずつ一杯に使ってるから入れば邪魔になるだろうな」
恐らく入場を拒むオーラの正体はそれだろう。
フロアをネットで半分ずつ分割された両部は出来る限り、使えるだけの場所を最大限に使っている。
「中に入るのは諦めよう。葉月、格技場にでも行こうか」
「そうですね、でも、格技場も同じような雰囲気じゃないのですか?」
葉月の危惧。それは多分に的中しているだろう。武道というのは集中力が命となる。
その点から見れば、他者を拒むオーラは体育館に比べて強いだろう。
そうすると、体育館よりも入りにくくなりそうだ。
「そうかもな。ま、そんなことはなんとかなるだろ」
楽観論を述べる。今朝の剣道部の顧問たちの様子と、部員である串井の様子を見ればなんとかなりそうな気にならなくもなかった。
正直言おう。今のところ俺は連中に対して、ストイックとは遠く離れた印象しか抱いていないからだ。
そんなことで体育館の前から、次に中から掛け声と地響きが聞こえてくる第二格技場へと向かった。
体育館同様、ドアは開けっ放しにされており、しかし、体育館のそれとは質の違った熱気がそこから排気されていた。
中を覗くと、ステンレスの下駄箱しか見えない。どうやらそこから、ホールまでにはL字に折れ曲がっているらしい。
「ん? 成美とカタリ君?」
不意に背後から声をかけられる。声色、そして俺に対する呼び名で、振り返るその前に声の主は誰かを特定できた。
「よう」
振り返り、そこに居るだろう串井に向けて、声をかけた。
視線の先にはやはり串井が居た。上下を深い藍色で統一された袴。剣道着だ。
首からタオルをかけており、顔一面に銀色に光る、汗の玉を浮かべている。休憩中だろうか。
「なにしてんの? こんなところ、普通は誰も来ないよ?」
「編入生に対する差別と、葉月とともに戦っているんだ」
新入生には部活動見学を学校が主催してくれるのに、編入生にはそれがない。一種の差別ではないだろうか。
もちろん、これは差別でも何でもない。編入生と言えど、一応は上級生なのだ。部活なんぞ、どこの学校も大して変わらんし、第一、学習面において支障が出てしまう。
これを差別と叫ぶのは、論点がおかしいという点で、今日流行りの勘違いフェミニストと相違ない。
新入生の場合は、早く高校生活に慣れてもらうための猶予期間も兼ねて開催される。ほかの学校とは言え、すでに高校生活に慣れている編入生には行われないのが道理だ。
「え? そうなのですか? 片陸君、差別されているのですか?」
「いや、そんなクソ真面目に聞かれても……」
串井に何かしら言われると思ったが、その前に隣に居る葉月にきょとんとした表情で、俺の言に疑問の声を上げていた。
正直、予想外だった。まず、串井がごめん、意味がわからないとでも言うだろうと踏んでいたからだ。
そして、これも正直に言おう。電波発言を普通の発言で食わんでください!
「私、何も役に立てませんけど……でも、がんばります」
そして、この返答である。
珍しく力強く自己主張をした葉月。再び両の手を握り締め、一応気合を入れているのだろうか。ちなみに、そんなに気合が入っているようには見えない。
むしろどこか可愛さが存在しており、それでいて、どういうわけか滑稽だ。
それよりも、この娘、絶対にともに戦うってことを信じてるよ! まずい! どうしよう!
どうやら葉月はあいまいな俺の受け答えで確信に到ってしまったらしい。実にまずい!
「そんな、真面目に受け入れて、そんなに気合入れられても、こっちが困るんだが……」
「それで、何をすればいいんでしょうか?」
いつもは頼りなさげに意思を外界に示している彼女の表情が、この時ばかりは、何故か凛として、力強い意志を示していた。
しかも、地味に俺の言ったことを無視してるし。
どうやら、さらに状況が悪くなりそうだ。
「いや、何もすることはないんですが……」
「いえ、大変なことです! そんなことあってはなりませんから!」
ずいずいと俺に迫る葉月。こんなに積極的だったか? 傍目から見ればとてもな情けない構図になっているに違いない。
葉月の言うそんなこととは、俺が口から出任せに出した、編入生に対する差別、このフレーズを指すのだろう。
と、言うか、葉月の性格上、これくらいしかこんなにも過剰反応するフレーズが見当たらない。
「だから、私に出来ることは何でもします!」
「いや、その、とても申し上げにくいのだが……」
いつもは俺や串井とかの唖然とすることの多い葉月に、ここまで振り回されるとは思わなかった。
串井に助けを求め、視線をもっていくと、あろうことか、奴はニヤニヤしながら俺が葉月に守勢に回っているところを傍観していた。
この裏切り者!
表情を読み取ると、面白い、だから助けない、と書いてある。まさしく、それは面白おかしいことを至上の喜びとする変人特有の行動理念だった。
くそ、これで第三者である串井の助けは得られなくなった。面白おかしいことを傍観すると決めた変人の意志の固さは尋常ではない。俺もそうだからよくわかる。
だったら、どうすればいいのだろうか。この俺の意味のわからない、口から出任せに言った、適当な言葉から続くこの変な追及を遮るには。
口は災いの元とはよく言ったものだ。災いとは違うが、予想外で面倒なことになってしまった。
「じゃあさ、そうだな」
一つ、妙案が思い浮かぶ。自分でも言うのもアレだが、結構自信がある。天才的な案とも言ってもいい。
問題点を一つ挙げるとしたら、俺が変態だと思われてしまう可能性があることだろう。だが、背に腹は変えられん。
俺の言葉に対して、葉月は一つ緊張し気味な返事をあげた。
俺は口を開く。この状況を打破するであろう、妙案を発声するために。
「そうだな、キスしてくれないか」
「はい! わかりました!」
どうだ、この見事な妙あ……って、え?
今、何が?
「……は、葉月さん? 今、俺の言ったこと、理解できました?」
思わず敬語になる。それほどにまでショックだった。計算が外れたのも、葉月の間髪入れないで返して来た答えも含めてだ。
俺の目論見では、葉月は顔を真っ赤に、また初めて会った時のことや、この前の駅前の時のように、しばしフリーズするはずだった。
そのあと俺は冗談だよとでも言えばいいのだ。これで全てが解決する予定だった。
しかし、どうだろう。現実は。この娘、はいって言いましたよ? わかりましたって言いましたよ?
どうか、どうか。どうか、葉月があまりのことに脳の処理が遅れて、口が先に、それも思考とは正反対の返答を出してしまった、そうであってほしい。
「ええ、その、恥ずかしいですけど……でも、片陸君の役に立てるなら……」
脆くも崩れ去る願望。グッバイ、俺の甘い願望。ハロー、現実様。現実様、俺に試練を与えるのですか? 状況を悪化させないで下さい。
そして、葉月さん。そんな顔を赤くして、目をそらさないで下さい。こっちも赤面したくなります。
傍観者である串井に視線を移動させると、腹を抱えて、しかし笑い声だけは器用に噛み殺して悶絶していた。そして串井は俺らから視線をはずした。
おい、こっちを見ろよ。情けないが助けてくれよ。妙案と思って対応したらこのザマだよ。
「では……」
覚悟を決めたのか、そんな言葉を口にした後に、地面に向けていた視線を上げた葉月。相変わらず顔は赤いままだが……
まずい、やばい。完全に目が据わっておる。
コイツ、マジだ! 本当にやる気だ!
一歩、俺に近寄る。
「いやいやいやいや、は、葉月。こういうのは、な? その、あれだ。恋人同士が、さ? するものであって、俺たちみたいな関係じゃするもんじゃ……」
あわてて弁明する俺。十分にヘタレで、実に情けない対応だ。俺の主観でもこの情けなさなのだから、傍から見れば、飽きれたくなるような情けなさを感じるだろう。
「でも、私、片陸君に助けてもらってばかりだから……だから、大丈夫です……」
さらに一歩と、俺に近づく葉月。
大丈夫って、何が大丈夫なんだ! 俺から見れば大丈夫な要素は何一つ感じやしないぞ!
第一、俺は葉月を助けたような覚えもないし……、ああ、くそ、なんか全てが裏目に出てる!
串井は串井で、笑い声を噛み殺すのがつらくなったのか、いつの間にかに、こちらのほうを向きなおしている。
それも失礼なことに、指を差しながら爆笑しているし……状況がますます悪化してるんだよ! 笑うな!
「葉月! こんなシュチュエーションでお前は本当に大丈夫なのか!?」
何にしてもひどいだろう。普通は高校生、特に女子はよく言うだろう。恋に恋するお年頃って。
そのお年頃真っ盛りである、葉月がこんなシュチュエーション、それも彼氏でも何でもない、ただの友人にキスするなんて。それで満足なのか!?
顔をさらに赤らめた感を出し、頷く葉月。
何故頷く! もっと青春を大事にしなさい!
一歩一歩、一進一退でなかなか間合いの詰まらない俺たち。まるで、時代劇の殺陣のようだ。ただ、現代に蘇ったそれは、とても情けないものではあるが……
一歩後退。
かかとに段差の感覚。
もう一歩後退。
段差を踏み越える。
「もう一度考え直せ、な? いやいや、その前に落ち着こうか、な?」
諦めずに説得を試みる。その間も後退を続ける。
畜生、こんなに葉月が変に頑固だとは思わなかったぞ。ここは、いつものように消極的でいて欲しかった。
誰だよ、もっと積極的になったほうがいいとか言った輩は。それは俺だよ、そんなことを言った輩は。
どこまで続くのだろうか。この情けない一進一退は。
「きゃっ」
情けない一進一退は突然として幕を下ろした。
俺が先ほど、背を向けながら乗り越えた、高さ五センチ強の段差に、葉月が足を引っ掛けてしまったのだ。
「っ!」
それまで後退して葉月との距離を広げようとしていて、数メーター弱となっていた間合いを一息に詰め、葉月を受け止める。流石に女子が顔から突っ込むところは見たくはない。
その間合いとは大体、五メーターもないような距離だったので、一瞬にして詰めることが出来、受け止めることも成功した。
感じる葉月の体温。女性特有の体の柔らかさもだ。
って、おい、待て。この体勢って……
「やるねぇ、カタリ君」
まるで、ケンケンかヘムヘムのような嫌みったらしい笑いを、顔面に貼り付けた串井の言だ。
貴様、さっき目線を逸らしたくせに、なんでこういうところは見やがるのだ。
さて、串井がそんな悪意を思い切り詰め込んだ笑みを浮かべる原因たる、今の俺の体勢を見て見よう。
俺は倒れそうだった、葉月を受け止めた。実に美しい話だろう。現に成功もした。
しかし、正確に言えば葉月を受け止めた……と、の表現は不適当であるかもしれないのだ。
俺の両腕は、葉月の腰の辺りをしっかりと回して受け止めており……いや、回りくどく解説をするのはやめようか。
要するに俺は葉月を抱きしめる形で受け止めていました。抱きとめたって表現が適切でした。てへっ。
「葉月、大丈夫か?」
取りあえず、気恥ずかしいが葉月を心配しよう。
ゼロとなった俺と葉月の距離を、離し葉月に問う。
葉月の表情は先ほどの、妙な決意を持ってキスをしようとした時よりも、更に紅顔しており、そのさまはまるで、トマトかリンゴを連想させた。
「ええ……つまずいただけですから……足もくじいてないですし……」
「そうか、そりゃ良かった」
「成美を抱きしめられたからね」
外野のいらん発言。それを受けて、うつむく葉月。
なんとも純真な娘である。葉月は。
「ふっふっふっ、カタリ君。事の顛末を知っていれば、なんてことのない話だけど、その部分だけ切り出して見たら……いやぁ、青春だねぇ」
ずっとニヤニヤしっぱなしの串井である。いっそのこと、もう一回ぐらい草加の言う、2D変態ワールドとやらにでも行ってしまえ。
串井の発言は丁重に無視をすることにしよう。
「あ、片陸君……その……」
「あのな、葉月」
葉月の言いたいことを先読みし、先に答えを出す。
「キスをしてくれってくだりは冗談だ。それと、あれだ。お前は本当に編入生に対する差別があると思っていたのか?」
つまり、葉月はもう一度あの情けない一進一退をするかどうかを聞こうとしたのだ。
ここで先手を取られるとまた、あの状況が生まれかれない。
「あ……そうですよね。私、少し早まっちゃって……」
「いや、そもそも俺がわけの解らない、電波なことを言い出したのが悪い。まあ、あそこまで真に受けるとは予想外だったがな」
少し反省したような葉月。本当は反省する必要はまったくないのだが……それは葉月の生真面目な性格ゆえのことだろう。
それにしても、あそこまで葉月が暴走するとは本当に思わなかった。
いつか妄想した、アタックネーム・シーシェパードを具申する葉月。こういう一面があるなら、もしかしたら現実になるのかもしれない。
「それはそうとさ、カタリ君、なんでこんなところに居るの?」
「暇つぶしにいろいろな部活を見て回ってんだ。で、格技場の前に来たってわけだ」
串井がもう一度問うてきた内容に、今度は真面目に答えた。また変なことを言って、葉月に真に受けられてしまったら困る。
「へえ、なるほど……ね」
俺と葉月を見やり、納得したらしい表情浮かべる串井。
気のせいかもしれないが、その表情にもほんのり悪意が感じる。多分、気のせいだろう。そして、気のせいであってほしい。
「じゃあさ、中に入ってみない?」
「いいのか? 練習の邪魔になると思うぞ」
「大丈夫、大丈夫。そんなことでいちいち集中切らしていたら、大会で勝てるはずがないって。大会なんてもっと大勢の人数に見られているんだからね」
けらけらと笑い、さらりとすごいことを言う串井。確かに、正論ではあるような気がするが、極論でもあるような気がする言い分だ。
「でも、場所をとるのではないのでしょうか? 二つの部活が使っているわけですし……」
続いて葉月の質問。柔道部と共用しているのであれば、確かにそうスペースがないような気がする。
だとすれば、やはり俺らの存在は邪魔になってしまうのではないだろうか。
「ああ、気にしないで。柔道部は二階なの。だから、見学者を受け入れるくらいのスペースの余裕はあるわよ」
「だ、そうだ。行くか、葉月?」
「そう、ですね。司ちゃんが大丈夫って言うなら」
その言葉を受けて、俺ら三人は熱気が掛け声と共に漏れ出す格技場へと踏み込んだ。
人家で言えば土間と言うべき場所にでかでかと占拠する、真新しいステンレスの下駄箱。それが二つ、横に並んでいた。恐らく片方が剣道部で、もう一つは柔道部のものだろう。
下駄箱の高さはブロック数で言うと、ざっと七、八段ぐらいだ。その区切られた一つ一つに名前の書かれたシールが張っている。
下から三番目から一番下の段にはシールが張っておらず、つまり、そこを使う主が居ないことを意味していた。
「靴はシールがないところならどこでもいいわよ。あ、それと靴下も一応脱いでね」
さっさと自分の下駄箱につっかけていたサンダルを突っ込んだ串井。もちろん裸足だ。
串井の指示に従い、シールが張られていないブロックを開けた。大きく上下に二段となっており、靴が二足は入りそうだ。
多分、先ほどまで串井の履いていたサンダルはこの道場に置きっぱなしにしておいたものだろう。流石にいくら串井とはいえ、制服姿にサンダルを履いて登校などはしまい。
靴と靴下を脱ぎ、文字通り裸足となった。むき出しとなった足の裏から、フローリングの感触。冷たくはなく、むしろ生暖かい。
どうやら、湿り気を帯びた熱気によって、フローリング自体も少し熱を持ち始めているようである。
隣を見ると同じく葉月も裸足になっていた。いつも紺色のソックスを履いていたせいか、それともワンピース状の制服で素足が目立つせいか、どこか違和感を覚える印象となっている。
いや、違和感とは言え、決して悪い意味ではない。そう、違和感では多少語弊があるかもしれない。あえて言えば、新鮮に見えた、こんなところだろうか。
L字に曲がった通路を抜け、広いフロアへと出た。竹刀が立てる乾いた衝突音、フローリングを蹴る音、そして掛け声。
外から聞こえたものよりも、だいぶ大きな音が、格技場の一階を満杯にしていた。
そして目の前に見えるのは、重そうな防具を身にまとった部員たちが、攻守を見ている者の目を追くことを許さないほどの速さで展開する光景。
直撃したのかどうか。素人の俺ではそれすらも理解できない。それくらいに速い。
これは葉月でなくとも、恐らく初めて剣道の練習を見たもの全てが圧倒されそうだ。現に俺は予想以上の光景に驚き、確かに圧倒されていた。
隣に居る葉月は、俺以上に圧倒されているらしく、例えではなく文字通り目を丸くして眼前に広がるその光景を見ていた。
「あ〜、どこがいいかな」
圧倒される俺ら二人を尻目に串井は辺りを見渡していた。言葉から判断するのであれば、俺らが見学するのに最適な場所を探しているようだった。
「あ」
串井がその一言を発したあと、ある一点を見つめた。
目の前の光景に圧倒されていた俺は、視線を前方から引き剥がし、串井の見ている方向へと合わせた。
その先に防具は着けているが、面を被っていない二人の男が正対していた。その手には、しっかりと竹刀が握られている。
「あちゃ〜、ありゃまたやるかな」
心底呆れの色が目立つ声色でそう呟いた串井は、バツが悪そうに俺を見やった。
その声を聞いてか、俺に遅れて葉月も正対する二人の男の方を見た。
俺は彼らに見覚えがあった。
「確か、あのふたり、剣道部の顧問だよな?」
しっとりとした朝の雰囲気をものの見事にぶち壊した、あのエキゾーストノートとデッドヒートが頭に浮かぶ。
確か二人の名前は、江崎と井上だったか。睦月さんに教えてもらったことを思い出す。
四年連続でインカル決勝戦にて対決。成績は共に二勝二敗。絵に描いたようなライバル関係ではないだろうか。
「そう。顧問というにはあまりにも子供っぽいけどね。あ〜、部長は……いないか」
再び辺りを見渡す串井。今度は部長を探しているようだ。
気が付けば、打ち込みをしていた部員全員がそれを止め、ある一点、つまり江崎、井上両顧問の正対の図を見つめていた。
部員の大半は面で隠れて表情が読み取れないが、面を被っていない奴の表情を見るなら呆れといったものが読み取れる。
それから察するに、どうやらこういったことはしょっちゅう起きているようだ。
「おい、てめえ。もう一度言ってみやがれ」
短髪で、いかにも体育系教師風の江崎が、これまた教師とは思えないようながらの悪い台詞を漏らした。
表情は険しく、顔一面で表現している感情は怒りである。
「まったく、お前の低脳っぷりには呆れるな。いや、聞き返したってことは理解して、もう一度言って欲しいってことか」
のどの奥で笑い、実に挑発的な態度をとる物理教師の井上。元来持つ冷静な雰囲気とあいまって、よけいに冷たさを強調していた。
今までの言から判断するに、どうやら喧嘩に発展しかかっているらしい。しかも空気は険悪。それ以上に当てはまる表現が見つからないくらいだ。
「ああ!? やるか!? てめえ」
「またそれか。やるも何も、お前はすでにその気満々じゃないか」
井上の言葉通りだ。もう、江崎は何を言おうが、隙があれば井上に飛びかかろうとする意思が体中からにじみ出ている。
ただ、井上先生。俺が思うに、江崎先生があそこまで頭に血が上っている原因は、あんたの挑発だと思いますぜ。
多分あんたも、嫌いじゃないでしょうに。江崎先生を逆上させることをですよ。絶対、楽しんでいるでしょう。
更に険悪になった二人の間の空気。じりじりと距離を詰める、二人の顧問。
「おい、来ないのかよ? やっぱ、てめえはただの腰抜けか」
ますます汚く、また荒々しい言葉を使う江崎。台詞としても、挑発としても出来はいいとはいえないだろう。
「十分だ。お前に対しては先手を取らなくとも、充分に勝てるからな」
表情をにやりと一瞬崩したのは井上だ。一応、さきほどの出来の悪い挑発を仕掛けてきた江崎に対する答えだろう。
ただ、この言葉もまるで少年漫画のすぐにやられてしまう敵キャラを髣髴させる。そう、例えば北斗の拳のモヒカン達とか。あれが理知的になった感じだ。
井上と対照的にそんな頭のよくなったモヒカンの挑発を真に受けた江崎は、顔をさらなる怒気をにじませた。
じりじりと互いの距離を詰める両者。だらりと下げていた竹刀は、いつの間にか正眼と呼ばれる、剣道において基本形となる構えを取っていた。
面も被っていない。それはかなり危険なのではないのだろうか。いや、絶対に危険である。むしろ、危険ではないと言う人間がいたら見てみたい。
「あの……その、止めなくてもいいのですか?」
止めたほうがいい、明らかにその意を含んだ声で串井に問う葉月。対する串井は、それが出来たら、といった諦めが強い表情を浮かべた。
それから察するに、どうやら、止めたくとも止められないらしい。軽く肩をすくめ、串井は再び、今にもどつき合いが始まりそうな二人を見た。
糸を引っ張ったように、ぴんとした緊張感。それは、正対する二人が互いに距離を詰めるのをやめ、相手の出方を探りあっているからだろう。
自分がこう出れば相手はこう出る、ならどうするか。二人の脳内では今、恐らくはどのように相手を叩くか、どのようにして相手の攻撃を防ぐかをシミュレーションしているだろう。
それは見えない竹刀の攻防と言おうか、仮想の中での攻防と言おうか、とにかくそう考えれば、もう竹刀で殴りあう喧嘩は始まっていると言ってもいいかもしれない。
緊張の糸が切れれば一気に乱打の応酬になる、誰もがそう予測していたし、またそうなるのは結果に見えていた。
その緊張の糸がぷつりと切れた。ただし、誰もが予想した両者の乱打の応酬は繰り広げられなかった。
「何をしているんですか? 先生?」
緊張の糸を切ったのは、入り口付近から聞こえてきたその一言だった。二人の剣道部顧問は、一瞬ぎくりと体を反応させ、面もしていない顔から読み取れたのはまずい、といった表情。
「面もつけずに正眼で構えて……それも、丁度合い交えるような形になってますねぇ」
ふと横を横切る黒い影。俺はそれに驚いた。どうやら足音を立てずに両教師の下へと歩き出していたようだ。その黒い影こそ、二人の衝突を防いだ声の主だろう。
声の主はすでに後ろ姿しか見えない。紺色の剣道着を着ていることから、剣道部関係者だろう。声の質からして判断して、恐らくは男。
ただ、男の背格好はとても華奢だ。髪の毛は手ぬぐいで隠れていてよく見えないが、短くも長くもなさそうだから、余計に性別の判断を難しくしている。
声がなければ性別の仮定することすらできなかったろう。
「いや、その……」
江崎顧問が口ごもる。顔には明確な同様が表れており、その様はまるで悪戯が見つかった時に幼児が見せるそれそのものだった。
対する井上顧問は、視線をあさっての方に向け、あからさまに近づく彼と目を合わせないようにと、必死の抵抗を見せていた。
「何かふか〜い訳がおありなのですか?」
言葉遣いは丁寧で、音もとても柔らかだが、明らかにどこかにトゲがある印象を抱く声色だ。
「だって、コイツ……俺に……」
喧嘩を仲裁され、喧嘩相手のみに責任をなすりつけようとするその様は、小学生そのものだ。
いい大人なのに、言葉遣いもあって余計に情けない印象を強めている。
「どうせ、声のトーンを落とせ、部員の鼓膜を破る気かでも言われたんでしょ。まったく……」
言い訳を自分の言葉で打ち切り、江崎顧問に有無を言わせぬ形にした男。その声には徐々ににじみ出る毒が増えているようだ。
「顧問が顧問に暴力事件を起こしてどうするんですか! マヌケじゃないですか!」
次の瞬間、硬い紙が叩きつけられる気持ちのいい音が格技場一杯に響いた。それから少し遅れた後、しゃがみ込み頭を抱える江崎顧問の姿。
いつの間にかに男は左手にハリセンを持っている。どうやら、そのハリセンが江崎顧問の脳天に炸裂したようだ。
どうでもいいが、アレはどこから出したんだ?
「それと! 井上先生!」
先ほどからずっと一生懸命視線を逸らしていた井上顧問は、一度体をびくりと反応させた後、とうとう観念したのか、そのあらぬ場所へと向けていた視点を、ハリセンを左手に持つ男に合わせた。
表情は江崎顧問ほど焦りが見られないが、暗くバツが悪そうなものとなっていた。
「……なんだ」
「なんだじゃないでしょう! 先生が面白がって言うから、こんな面倒なことになっているのですよ!」
「面白がってはいない。ただ単に奴が邪魔で消えてほしいと思っていただけだ。俺の快適な環境を作るためには、奴がどうしても邪魔なんだ。仕方がないだろう」
ぶっきらぼうに答える井上顧問。あまつさえ、自己正当化を図ろうとしていた。その点では江崎顧問よりも余程タチが悪い。
江崎顧問が小学生なら、井上顧問は反抗期真っ盛りの中学生といったところだろうか。
そんな反抗期的で、ある意味居直ったとも言える態度が彼の逆鱗に触れたらしい。
再び響くハリセンの炸裂音。しかも今度は一発ではない。四、五発、いや、六発かもしれない。続けざまに左手が閃いた。
「そんな下らないことなんてどうでもいいんですよ! 顧問が喧嘩して片方が大怪我でもしたら、下手すりゃ廃部になるんです! 猛省してください!」
ぐらりと揺れる井上顧問。両方の頬が赤くなっている。どうやらハリセンがそこに炸裂したようである。
神経が頭頂部より張り巡らされている分、こちらのほうが余程痛そうだ。それに、被弾回数も多かったし。
「まったく、問題児が顧問なんて部活聞いたことありませんよ」
もっともな愚痴をつぶやいて、こちらに振り向いた。それと同時にハリセンを悶絶する両顧問のそばに落とした。
そして一呼吸。
「よし休憩にしよう」
「部長、何分にしますか?」
隣に居た串井が休憩の一言に対し、そう聞き返した。
やはりというべきか、ハリセンを握って両方の顧問に制裁を与えた男は、部長であるらしい。
「そうだね、五分くらいにしようか、それで……」
部長は頭に巻いた手ぬぐいを外し、それから汗で頭にへばり付いた長髪の域にかろうじて達する髪の毛を、一度無造作にかきあげた。
しかし、汗で濡れている分、重さが加わった髪の毛は上手く跳ね除けられず、再び額やら何やらにへばり付いた。
「彼らは誰?」
俺らを見やりながら串井に問うた。不快そうに何度もかきあげている。
「見学者ですね。片方は見ての通りの療養科、もう片方は編入生です。私の友達ですよ」
敬語を使いながら話す串井。なかなかレアな光景だ。
少なくとも、俺は串井が敬語を使っている光景ははじめて見た。
何しろ、教師にまでため口で話すような奴である。これをレアといわずになんと言うか。それにしても、何故教師には敬語を使わず、先輩には使うのだろう。ミステリアスだ。
部長はかきあげる動作をやめ、何故か不思議そうに俺らを見た。いや、不思議そうに見やるのが俺にとっては不思議なんですが。
「へえ、なかなか珍しい組み合わせだね」
やはり普通科と療養科が一緒に居る光景は珍しいのだろうか。部長も外の部活の連中と同じような意味を含んだ視線を、俺らによこした。
気が付くと、二人の顧問に釘付けになっていたほかの部員の視線も、好奇の色を持って俺らに注がれていた。
「ああ、遅れたね。俺は部長の原島悟──ハラシマ サトル──。よろしくね」
自己紹介をする原島部長。いや、俺の立場からすれば、原島先輩とするのが適当だろう。
続いて、右手を差し出してきた。握手を求めているのだろう。なかなか、さわやかな好青年である。
「あ、どうも。片陸京平です。で、こっちは葉月成美」
やや気後れしつつも、差し出された手に、こちらも右手で握手をした。
次いで、葉月にも握手を求め、同様に握手を酌み交した。葉月一瞬躊躇した様子を見せたが、やがておずおずと右手を差し出した。
「すまないね、いきなり見苦しいところ見せて」
握手を終えて、原島先輩はいきなりそう謝罪した。見苦しいところ、というのはやはり、先ほどの両顧問の子供染みた喧嘩と、その仲裁のシーンを指すのだろう。
「あんな二人が剣道部の顧問で大丈夫ですか? 練習どころじゃない気が……」
とりあえず思った疑問を聞いてみる。
睦月さんは二人のおかげで剣道部は強い、その旨の発言をしていたが、どうもこんな感じで喧嘩をされては練習が妨げられているのでは、と思ってしまう。
その問いに対し、原島先輩は口の両端を上げ、ニヤリと笑った。
「普通そう思うよね。でもあの二人、暇があるとああだけど、指導するときは的確にしてくれる。それに、何故かその時だけ協力するしね」
「そうなんですか。なんか想像しにくいですけど……」
葉月のもっともな意見。その言葉に原島先輩苦笑いを浮かべ、一度髪を掻いた。
「だろうね。問題なのは二人の仕事がなくなったときに、ああやって喧嘩に発展すること。どうやって、あの二人を練習に釘付けるか、まだまだ課題があるよ」
「どっちが顧問なんだよ……」
思わずそんな事を漏らしてしまった。練習に釘付けるかなんて、サボリ癖の付いた部員をどう参加させるかを悩む顧問の台詞だ。
部長と顧問が見事に逆転、いや、顧問二人はもはや部員としてカウントされているという、とてもねじれた関係なこの部活。
子供そのものである江崎顧問と井上顧問をまとめ上げるのは、相当な苦労と察する。なんだかこの先輩、早くに髪の毛が真っ白になってしまいそうだ。ストレスとか過労でさ。
「まったくね、高校三年生に何負担かけてんだかって話だよ。こっちは受験勉強もあるのにねぇ」
「へぇ、部長一般なんですか? スポ薦とか使えばいいじゃないですか」
一年後、受験勉強という言葉に恐らく清水とともに、もっとも縁遠い存在になるだろう串井の言だ。
二年でも受験に向け猛勉強している気の早い奴に比べると、なんとお気楽な発言なんだろうか。かくいう俺もまだ受験勉強はしてないけどさ。
そんな串井の言葉を聞いて、ふっとため息を付いて肩をすくめた。
その後、原島先輩はどこかサディスッティク印象を受ける笑みを浮かべて、ミス・ノー天気こと串井司を見た。見たというよりは軽くにらんだという表現が適当かもしれない。
「もう、道がほとんど一本しかない誰かさんと違うからね。俺は少しでも選択肢が多いほうを選びたいんだよ」
「部長、私には剣道しかないのです! だから馬鹿なのです!」
堂々とそう宣誓する串井。もはや、馬鹿を改善する気すらないらしい。あ、そうか、だから馬鹿なのか。
高らかに宣言された馬鹿発言にまたもや、ため息を吐いた原島先輩。俺の隣に居る葉月を見ても、なんだかいつも以上に無理に苦笑いを作っているような気がする。
ただでさえ、あの二人の顧問という問題児の存在で部長の苦労は増えているのに、もう一人串井という問題児を抱えるとは……先輩もなかなか大変ですな。
何せ白峰高校馬鹿の代名詞が相手だ。加えて頭もおかしいし。
「ああ、そうだね。君はそういう奴だった……。嫌味を言ったつもりの俺が馬鹿だった……」
勝った! なんて意味の解らない台詞を吐いて狂喜乱舞する串井を尻目に、頭を抱えてため息をつく原島先輩。なんだか、草加を見ているようだ。
もっとも、こっちの方が情けなさというものが一切存在せず、いくらかマシと言えるが。
ふっと、先輩が抱えた頭を上げ、なんだかどこかサディスティックな笑みを浮かべた顔でこっちを見た。
その瞬間、俺の脳内で鳴り響く警告アラーム。
なんだかやばい。何故だかやばい。絶対にやばい。
このアラームは俺が面倒なことに巻き込まれる時に響くものだ。
「そうだ、君、少し体験してみないかい?」
ビンゴ。嫌な予感は当たった。
別段、体験自体が面倒なことには普通ならない。しかし、先輩のこの顔である。実にサディスティックである。声色もおっかないのである。
俺の鍛え抜かれた妄想力による予想によれば、これは絶対に憂さ晴らしである。
串井もなんだかニヤニヤしてやがるし。
「いや、その葉月も居るしそんなキツいことはちょっと……」
「何を言っているのかな? 俺は部員でもない女の子にキツいことはさせないよ。だから、片陸君、キミだけ」
「あのぅ、だったら部員でもない男にゃキツいことをするってわけですか?」
「大丈夫だよ」
一度サディスティックな笑みを消して、握手を交わしたときのような爽やかな笑みを浮かべた。
その瞬間、俺の予想が外れたことを確信した。良かった。この人は真面目なようだ。本当に良かった。
「ただ単に、うさぎ跳びで道場ぐるぐる回るだけだから」
「それ、すでに剣道関係ないでやんす! ただの拷問でやんす! セッキョーでやんす!」
前言撤回。この人、異常だ! 爽やかな顔して拷問内容を突きつけてきやがった!
鬼だ! まさしく現人神ならぬ現人鬼だ!
「男だろ、そのくらいは大丈夫。死にやしないからさ。ガタガタ言ってないでやるよ、矢部君」
「矢部でないでやんす! 拒否権を要求するでやんす!」
そんなことを気にしないで俺を引きずる原島先輩。どうやら、拒否権は俺には内容だ。
ひどいよ! 人権侵害だよ!
視界に葉月が入る。とても狼狽している。目で助けてくれと訴えるも、結果はわかってる。葉月にはこの状況をどうすることもできないだろう。
今の俺の姿を見て、多くの人は頭の中にある曲が浮かぶだろう。それはとても悲しい歌である。
そうドナドナだ。まさしくこの場合片陸は子牛だ。丁度葉月に悲しそうな目で助けを求めてもいる。ドナドナ以外にどんな曲が似合うというのか。
ずりずりと板張りの床を引きずられる俺。とてもむなしい。こうなったら、覚悟を決めてやるしかないだろう。うさぎ跳びなる前時代的、拷問への覚悟を。
そして明日襲ってくるであろう筋肉痛への覚悟もだ。一番この覚悟を決めなければならないだろう。
その後小一時間、道場には剣道部の掛け声と俺の悲鳴のハーモニーが響いた。