対角観察……起
対角から対角へ、対角から対角へ。
対角から対角へ、対角から対角へ。
対角線を描くに沿って動く光点。対角から対角へ、対角から対角へ。優に数百、いや、幾千を超える角を持つ、多角形がそこに存在していた。多角形と呼ぶには、厳密に言えば語弊があるが、それ以外に形容できるものは存在しない。角と言う表現もそれに然り。
その内側、幻想的な圧倒的な数の光点が、それぞれの対角線上にある角へと移動する。
速度は一定。しかし、光の強さは各々に異なっており、今にも消え失せそうな光、まるで太陽の如く、煌々とさんざ煌く光、弱いがそれでも消えそうな印象を受けない光……多種多様、様々である。
ただ、どんなに弱くとも、途中で消える事は無く、確実に対角へと辿り着く。ただ一つの例外も無い。
対角から対角へ、対角から対角へ。
対角から対角へ、対角から対角へ。
世話しなく、数え切れない程の光点が動く。
対角から対角へ、対角から対角へ。
対角から対角へ、対角から対角へ。v
光は決して隣り合った二つへとは移らない。
対角観察……結
始業式から三回目の日曜日が過ぎ、さて、明日になれば晴れて四回目の土曜日が来る訳となる。その間に県下一斉テストが終わり、色々な部活に一年生が入部した。俺も相当に学校に馴染んでいる。
県下一斉テストでは、草加がまさかの、学年総合一位を取る結果だった。串井が言うには、草加は昔から勉強だけは出来たらしい。その代りと言うか、運動が出来そうな容姿とは裏腹に、体育の体力テストでは悲惨な結果を叩き出した。五十メートルは九秒で走り、握力は二十キロ、反復横とび、上体起こしは人一倍速度が遅く、ハンドボール投げと立ち幅跳びに至っては、女子にすら負けた。その上、持久走はもう、死ぬんじゃないかのと思う程、足取りがふらついていた。唯一マトモだったのは、長座体前屈で、それでも四十九センチと言った所だった。人は外見で判断できないと言うのは、この事だろう。
しかし、典型的な勉強人間の草加に対し、明らかに運動が出来そうな串井はその逆を行っていた。全てにおいて、女子でのトップクラスの運動能力を見せ、ハンドボールと立ち幅跳びは勿論、五十メートルでさえも、草加を上回った。ただ、勉強はからきし駄目で、普通、療養合わせての学年順位が五百二十人中、五百十九位と言う素晴らしい順位だった。これを見てしまうと、人間外見で判断できてしまうではないかと、疑問に思ってしまう位だった。とことん、逆を行く幼馴染同士だ。余談だが、今回五百十九位は串井合わせて、二人おり、そのうち一人がウチのクラスのダンス部、清水だった。ようするに、この二人が学年のシンガリなのだ。
尚、他の連中の順位は、武田が六十三位、葉月が五十一位、俺が三十位と言った具合だ。早い話、やたら頭のいい奴と、やたら馬鹿な奴を除いてしまえば、そう変わりの無い学力なのである。
さて、そんな俺らだが、今現在、学食に居る訳である。この三週間、殆ど昼食はこのメンバーで摂っている。例外なく、例のレクレーションが行なわれ、今のところ、草加の連戦全敗中だ。もっとも、その原因は串井と俺の妨害にあるのだが……
今日のテーブルに並んでいるメニューは天丼、月見うどん、ラーメン、カレー、日替わり定食だ。
「思ったんだけどさ、このメンバーで何処かに行ってなくない?」
切り出したのは、天丼を手に持った串井だ。言われてみれば、初対面から三週間、このメンバーで何処かに行った覚えはない。クラスでは、特に女子では、変な特有の結束力が働き、あたかも馴染みの親友のような、雰囲気をかもし出している。それらに聞き耳を立てれば、昨日いった何処何処は……の様な会話が聞こえてくる。
かと言う俺は、クラスの男子と、下校途中ではあるが商店街などに繰り出してはいる。
「そりゃそうだろ。県一だの何だので、色々忙しかったからな。それに司、お前は補習もあったからな」
いつもの仕返しと言わんばかりに、補習の部分を強調する草加。草加の眼前には、いつも通りの日替わり定食が置かれており、今日こそは負けんと威勢の良く食っていた為か、残りは少ない。
草加にしては、毎日の様に弄られたくは無いのだろう。それでなくとも、もうすでに、クラスの中で弄られキャラが定着してしまっているのだから、気持ちは解らなくも無い。
もっとも、その弄られキャラが定着してしまった最大の原因は、この片陸京平が常日頃なじっているからである。そういう俺は、クラスの中で変人、またはピエロの様なポジションに位置している。
「補習? ああ、あの毎回の成績不良者を、視聴覚室に閉じ込めてするあれ?」
カレー最後の一口を放り込んで、補習と言う言葉に反応した武田。どうやらその口ぶりだと、テスト毎に補習はあるらしい。
編入三週間にして、始めて見た様な気がする名門校の燐片だ。
「武田君、甘いね。私がそんなもん聞いていると思うか! 清水君と一緒に来週、再補習よ! 白峰補習ツートップの結束は堅いんだぜ!」
「く……串井さん、よく……去年、留年にならなかったね」
苦笑いを浮かべながら、月見うどんの丼を返却するのに帰って来た葉月が言う。再補習になると言う事は、再テストを行なったのだろう。それで、さらにその再テストでヤバイ点数をとったから、再補習……と言う事か。それはそうと、串井と言い、清水と言い、こんな連中が良くこの学校に入れたと思う。
一度、串井の結果を見せてもらったが、二十点台が八割を占めており、残りの二割は十点台と言う始末だ。要するに全てが赤点という有様だ。
「ふ……知ってる? 去年ね、私、三成と同じクラスだったの。学年末テストの時にね、そぉっと前の席の三成の答えを……」
「流石だな、串井。それで留年回避か。ふむ、考えてみればバレたら停学と言う、最高のスリルがあるな」
ラーメンを食い終わり、串井の勇気ある行動……もとい不正行為を称え、冷静にその時の状況を考えてみる。
問題が解らずに、困り果てる串井。前の席では学年で一、ニを争う優等生の幼馴染が黙々と問題を解いている。
ちらと教室監督をしている教師を眺める。監督は持ってきた本に視線を落とし、監視する役目は果してはいない。ある意味職務怠慢だろう。これをチャンスと言わずなんと言うか。
見つかる恐怖と戦いながら、顔を僅かに横にずらす串井。自分と違い、全くもって空欄のない、実に見事な答案用紙が机の上に広がっていた。それを慎重に読み取りを開始する。投影開始──トレースオン──。
職務怠慢の教師に気を配りつつ、完璧な答案用紙を書き写す。そうして、串井は自分の空欄を次々に埋めて行く。まるで自分が頭が良くなったような錯覚。答案の七割を、優等生である幼馴染の答えを写し、さて、これで赤点と、留年回避は確定した。後はゆっくりと惰眠を貪るのみ……
ざっとそんな構図だろうか。度胸がなければ、到底出来る事がない所業だろう。素直にその串井の度胸に感銘を受け、彼女に賞賛のサムズアップを送る。もっとも、そんな度胸を持つよりも、しっかりと勉強をした方が余程楽なのだが。
「……そういや、お前、入試でも俺の見たって言ってたよな……」
更なる問題発言。どこぞの県の教員採用試験よりも凶悪な不正だ。いや、こちらの方が、裏金もコネも使っていないから、ある意味ではクリーンだが、不正は不正に変わりは無いだろう。
「まあ、そんなど〜でもいい事は置いといてさ。明日、この面子で何処かに行こう! っても、青倉ぐらいしか行くところないんだけどね」
重大な不正をそんな事で片を付けた串井は、俺の聞き知れぬ単語を出した。行こう、という事はその単語が地名である事が解る。
「青倉とは、何ぞ?」
「白峰駅から二駅先の黒島で降りて、乗り換え。そこから五駅先の駅が青倉だ」
俺の素直な問いに、草加の的確な助言が飛ぶが、今一土地勘がつかめない。と、言うより、ここに来てまだ三週間で、土地勘をつかむ事は不可能だ。土地勘を掴めているのは実質、河本家周囲と白高周囲ぐらいである。因みに言っておくが、俺は引きこもりの気がある訳ではない。暇なら、そこら辺をほっつき歩き、遭難する事も多々あるくらいだ。
「ほう……で、街はデカイのか?」
その一点が気になる。白峰駅周囲の状況を見る限り、ここ近辺は中途半端な田舎、という印象を受ける。路線変更を含めて、七駅も移動する為、少なからず環境が変わるはずであるが、如何せん白峰付近の状況を見れば不安になってくる。
仮にだ、その青倉とやらのレベルが、駅ビルが申し訳なさそうに一応くっついている程度のものであれば、俺はそこに繰り出そうというここの住民の価値観を疑う事だろう。とりあえず、繰り出すのであれば、少なくともそれなりに発展した所でありたい。そして俺はこの称号を自信を持って送るだろう。田舎者…… と。
「この界隈では一番デカイな。ああ、勿論ここなんかとは、完全に比べ物にならないから安心しろ」
「集合場所は……黒島の改札ら辺で。カタリ君は家はこの近くだよね? 成美と武田君は何処ら辺に住んでるの?」
草加の説明に一安心をし、続いての串井の質問に頷く。
同じく串井の問いに武田はまたもや、俺の知らぬ答えを出し、同様に串井も俺の知らぬ駅名を言い、俺を除いた四人が納得していた。なんだが、少しだけ孤独感が生まれた。そこで初めて実感した。俺は遠い地に来てしまった事を。
武田の最寄の駅を確認した串井は、次いで、葉月にも同じような質問をぶつけた。
「私は……住んでる所は違うけど……片陸君と同じ白峰駅です」
何となく、葉月が俺と同じ駅が最寄と言うだけで、若干の安心感が生まれた。それは恐らく、知らない地名続きの中、唯一理解できたからだろう。
その後、昼食は明日の計画の詳細説明となり、それは昼休み終了まで続いた。
***
串井に指示された時間の電車に間に合わせるべく、いつもとそう変わらぬ時間に目覚まし時計によって叩き起こされた。普段なら、何時もよりも二時間ほど遅い時間に起きるのだが、今日ばかりはそうはいかなかった。流石に、人を待たせている時に遅刻……なんて羽目は避けたい。
寝ぼけ頭で、ほぼ無意識に布団をたたみ押入れに収納する。もう、意識半分でもこなせる程に熟練してしまった。ここまで来るともはや習慣と言っていいだろう。
時刻はいつもの登校時間より、少し遅い午前八時。この三週間で解った事だが、平日だろうと休みだろうと、京子さんは朝早く起きている。いつも俺が起きると、すでに朝食が出来上がっているあたり──それも手のかかる和食──、少なく見ても俺の起床時間二時間前には起きているのだろうか。果たして本当に、休みの日には十一時近く眠る俺の母親と血がつながっているのだろうか? いろいろと、疑惑の絶えない女性である。
案の定、居間へと向かうと、京子さんは朝食を作り終え、既に摂り始めていた。一言、京子さんに挨拶をしてから、台所にある朝食を取りに行く。炊飯器のご飯を茶碗によそり、それをお盆に載せる。
京子さんの向かいに座り、朝食をとる。殆どのメニューは理解できたが、度々、俺の見たことのないメニューを出してくることがある。今回の朝食がそうだ。ちょこんと、ぱっと見よく分からないものが鎮座していた。色は茶色。おそらく醤油でこの色を出しているのだろう。形はフキの様に筋の入った……と、言うよりフキそのものである。しかし、自信を持って言おう。こいつはフキじゃない。俺の勘がそう囁いている。それに……良く見るとフキの艶やかさが存在していないのだ。
創作料理だろうか? どちらにせよ、京子さんの料理なら不味くはないだろう。そう思い、その創作料理を口に放り込んだ。
後悔した。早いだろうが、軽率に口に放り込んだ事を、もう後悔した。なんだうこの味は。しょっぱさの中に苦さが存在する、そのしょっぱさに負けん勢いの甘さ。甘さに隠れるのはほのかな辛さ。はっきりと言おうか、不味い。とても不味い。しかも俺は、似たような味を体験した事がある。何だっただろうか? 今現在、モノは口腔内に存在するが、体がそれを飲み込むな、と、猛烈にプッシュしている。
体の拒否を振り切り、モノを飲み込む。
「京子さん……これ、何ですか?」
「フキですよ。ただ、味付けに一工夫加えてありますけどね」
満面の笑みで答える京子さん。俺の勘が外れた。どうやらこれはフキだったらしい。もうフキの味はおろか、香りもしない。味付けに一工夫加えてあるらしいが、どう考えても一工夫どころじゃない。相当な調味料を投下しているのではないだろうか? そのせいで、肝心のフキの香りが完全に死んでしまっている。
ふと脳裏に浮かんだのは、あの悪魔の飲み物の事だ。緑茶風チャイ──聞くのもおぞましい、あの悪魔の味。味。味。そうだ、何処かで知った味だと思えば……このフキの味付けはそれに似ている。正確に言えば、アレを何十倍にマトモにした味だ。元々酷い味なので、マトモと言うのは本末転倒なのだが、まだ意識を混濁させるレベルには達してはいない。
「ちなみに……何と何を入れて味付けしたんですか……?」
素直な疑問を言葉に表す。緑茶風チャイは使用調味料を表記されていた。しかし、あの異常な量の調味料、そしてあらゆる質の味覚を混ぜ合わせたせいで、正体不明のカオスと化していた。このフキも、そうである。色々と味が重なりすぎて、抽象画の様な意味のわからない形をなしている。
質問に京子さんは、ふ、と微笑の息を漏らした。一度、右手に握った箸を置き、そのまま人差し指を唇に当て、言葉を紡ぎだした。
「企業秘密ですよ。教えたら、私の仕事なくなっちゃいますから」
齢三十七を超える女性にはあまりにも、若すぎる微笑みをである。俺の母親が妹なのに、姉に見えてしまう位だ。
しかい、その微笑みは暗にそれ以上聞くな、と無言で語っているようだった。
残りのフキを、一気に口に放り込み、直後にご飯を掻き込んだ。それによって表現不能な味覚が若干和らいだ気がした。ポラシーボ効果かもしれないが、そう感じたから和らいだと信じたい。
残りの朝食も手を早めて片付け、そそくさと席を立つことにする。じっとしていると、例の味を思い出しそうで怖いからだ。それに、時間はまだたっぷりとあるが、待ち合わせをするのならば、早くて悪いことはないだろう。
一度部屋に戻り、着替えを済ませる。財布を制服のズボンから抜き取り、机に置かれた携帯を持つ。軽く身だしなみを整えて、玄関へと足を進めた。ラカイのスニーカーを突っかけ、扉を開けた。
いつもよりやや高い位置にある太陽。それを眩しく感じ、思わず目を細めた。歩みを駅までの道へと進める。いつもの登校風景よりも、いくらか明るい住宅街を、いつもと違うスニーカーで歩いた。
そういえば、京子さんの言っていた、仕事がなくなるってなんだろう? 今更になって気になった。
***
あまり立派ではない高架駅の白峰に到着した。休日と言う事もあってか、駅前はこの時間帯の割には閑散としていた。と言っても、超ローカル線な為、平日でもこの閑散とした具合に毛が生えた程度である。
携帯で時刻を確認する。九時前三分。ここでの葉月との待ち合わせ予定は、九時二十分だから、まだ十分と時間がある。
驚愕の事実を知ったのだが、この路線、休みの日になると一気に本数が減るらしい。元々、木材運搬のために敷かれたラインらしく、その名残か休日になると極端に本数が少なくなると言うのだ。この時間帯なら、一方向二十分毎の電車が、休日なら一方向三十分になるというのだ。俺と葉月が乗るのは九時二十五分の電車だ。
さて、あまり過ぎた時間をどう、いかに潰すか。それが今の懸案事項である。真面目な葉月の性格を考えて、まあ、集合時間十分前位には来るだろう。そうすると、タイムリミットは十三分。
幸いなことに、駅前にはコンビニがある。まあ、無難にそこで立ち読みでもして時間を潰そうか。そう思い、コンビニへと足を進めた。
適当に雑誌コーナーに向かい、無作為に雑誌を取り上げページを開いた。目に飛び込んだ記事は鶴瓶三度のポロリ。あまりに直球な記事に度肝を抜かれ、一度手に取った雑誌の表紙を見る。でかでかと英語で書かれた雑誌名はフライデーだった。なるほど、納得。
いつもフライデーを馬鹿にしていた俺であるが、結構読んでみると面白い。パパラッチとは言わないものの、人権侵害ギリギリの記事が多々見られた。例えばこの、田代、留置所でもたこが出来た、なんてのは人権侵害もいい所である。
雑誌コーナーは大抵、コンビニの窓のすぐそば、さらに窓に本棚が背を向けた形になっている。このコンビニもその例外ではなく、視線を上げればすぐに外の様子を窺えることができる。さらに、窓は駅に向いているので今の状況には好都合だ。
フライデーから、ちらりと窓に視線を向ける。居た、葉月だ。コンビニに掛っている時計を視界の端で捕え、時刻を確認した。時刻は九時七分。集合予定時刻よりも十三分早い到着だ。さすが、葉月。真面目な奴である。
因みに今、葉月はコンビニに背を向ける形で、後から来るだろう俺を待っている。当の葉月にしてみれば、まさか俺が先に来ているだろうと思ってはいないだろう。
先ほどから葉月を観察していると、葉月は一向にこちら……つまりコンビニ側を向こうとしない。大体の、河本家のある方角を向いたままだ。
こちら向かない、向かない、向かない……そこで俺の片陸製、V10変態エンジンが唸りを上げて回転を始めた。かつてF1で十六戦十五勝を上げたホンダ、 V6ターボエンジンがなんのそのである。
今時珍しいビンのコーラと栓抜き──なんであるんだ?──を購入し、コンビニを出る。葉月の様子を伺うために、コンビニの外に設置してあるゴミ箱に、しゃがんだ状態で背をぴたりと付ける。そのまま、スパイ映画のように顔を少し出して覗き込む。葉月はこちらを向く気配がない。
キャットウォークの体勢で、前進。遮蔽物があるたびにそこに身を隠し、葉月の様子を伺った。一向に向く気配がない。
徐々に徐々に葉月に近づいてゆく。距離にして十メートル弱。ここで俺はコーラの瓶を激しく振った。時折、キャットウォークの上に、看板等で身を隠す俺に奇異の視線が突き刺さるが、それがかえって気持ちがいい。そうだ、この変人の俺をもっと見てくれ。
もう、葉月と俺の間に遮蔽物はなかった。音を立てないように忍び足で近づく。その間に買った栓抜きは、コーラの王冠にぴたりと付けた。
葉月と俺の距離、一メートル。ここまで来てバレずに近づけたのは一種の才能と言っていいだろう。いっその事、将来パパラッチにでもなろうか。まあこの際どうでもいい。俺は思いついた変態行動を実行に移すことにする。
「まむ・こるどん! ばっと・でぃす・いざぁ・こか・こ〜ら!!」
奇声を発し、栓抜きに力を入れる。行き場を失っていた炭酸ガスは、王冠の消失により、我先にと飲み口へと集中した。炭酸ガスの噴出と共に、コーラそのものも飲み口から逆流を始めた。
栓抜きで王冠を外した、その直後に飲み口を指で押さえる。完全におさえるわけではなく、わずかに隙間をあけて、コーラと炭酸ガスの逃げ道を作ってやる。早い話が、モータースポーツの表彰台で行われるシャンパンファイトの模倣である。ちなみに、マム・コルドンとは、F1のシャンパンファイトに使われるシャンパンの銘柄だ。
狙いは葉月……ではなく、葉月の肩の横スレスレを通り地面に直撃するルートだ。葉月の顔スレスレでも良かったのだが、勢いを失った時に葉月の肩に直撃する可能性がある。
出ようとするコーラの感触をおさえた親指に感じる。意外と勢いがあり、指が軽く痺れたような錯覚を覚えた。
「ヒッ!」
目測通り、肩スレスレを通過したコーラは、喉から漏れたような声を出した葉月の一歩先の地面に、勢いよく直撃した。タイルで敷き詰められた地面にコーラの炭酸で出来た泡が音を立てている。
徐々に勢いを失ってゆくコーラ。水鉄砲のような勢いが、いまや、ホースから出る水のようにだらしなく、流れている。
傍から見ればどれだけ滑稽な光景なのだろう。奇声を発し、コーラをドボドボ垂れ流す変態と、背筋どころか、つま先の状態で硬直する少女。まず、非日常的な光景である。
いまや、コーラはこぼれてはいない。それでも、葉月はつま先立ちの状態を維持して硬直し続けている。心に芽生える罪悪感。沈黙。要するに今、俺はとても気まずい。壁の薄いトイレで、隣の女子トイレの声が聞こえてくるぐらいに気まずい。
「えっと……葉月さん? どうしました〜? ……フリーズ?」
少し心配になって声をかけてみる。我ながら、女子に下手に出る情けない男だ。コーラの瓶を片手に握っている事が、尚更情けなさを強めている。
「か、片陸君……、驚いた……いきなり変なことしないでください」
つま先立ちの状態で硬直しっぱなしだった葉月が、ここに来てやっと普通の状態に戻った。
「すまない、すまない。隙を見ると何か悪戯をしたくなるタチなんだ」
コーラを握ったままで、両手を空に上げる。まるで自分でも理解できない、と言うように。
「それはそうと、片陸君……」
葉月が俺のある一点を直視した。それは俺の左手に持っているモノにをじっと見ている。
「それ、……どうするんですか?」
コーラを指差し、何処か怪訝な表情を浮かべる葉月。その表情は俺を咎めるような色もある。
なんとなく言いたいことは分かる。いや、むしろ、葉月の言いたいことは、俺だってちゃんと考えていた。
葉月が俺に訴えていること、それはビンに残っているコーラをちゃんと飲むのか、という事である。ビン内に残るコーラは半分程度。派手に噴き出した割には、さほどコーラは減ってはいなかった。
コーラ、ビン半分となれば一気飲みは苦にはならないだろう。さらにものは、激しく振られ、気が抜けたコーラである。さらに、一気飲みの難易度が易しくなっている。
しかし、しかしである。ここで気の抜けた上に、量もビン半分のコーラを一気飲みするのははたして面白いことだろうか? はたして俺が楽しいと思う事なのか? いや、面白くも、楽しくもないに決まっている。あくまで『気の抜けた、残り少ないコーラ』でやれば、面白くないのは当たり前だ。
そう、あらかじめ用意したコーラは二本。もう一本は尻ポケットに突っ込んで──キャットウォークの時、痛かったが──いたのだ。不敵な笑み……もとい、ニヤニヤした変態笑いを浮かべる。その表情で、さらに怪訝な表情を強める葉月。
ゆっくり、ゆっくりと、ポケットに突っ込んだコーラに手を近付ける。それは、まるで、西部劇のワンシーンの様にゆっくり、ゆっくりと。指が王冠に触れた瞬間、ゆっくりとしたスピードから速度を上げ、一挙にビンを引き抜く。
左手でコーラを持ちながら栓抜きを操る。我ながら器用なことだ。右手で開けるに比べ少し、手間取ったがそれでも問題なく開けれた。葉月の表情が変わる。呆然と言うか、本当にやるのかと言うか、信じられないと言った表情だ。
両手にコーラを眺め、ふと考える。二つ開けたのはいいものの、どう飲もうか。量と、気の抜けていないコーラは増えたものの、これを順番に飲んだのであれば面白くない。なら、どうしようか……いや、もう結論は出ているか。順番で面白くないのであれば、答えは一つ。そう、二つ一気に飲むのだ。これぞ正しく、真の一気飲みと言えるだろう。
ビンを口の前に近付ける。本当に二つ一気に飲み口が入るのだろうか? まあ、なるようになるだろう。
「見よ! このガラスの牙を! 珍獣、カタリクセイウチだ!」
奇声の後に二つのビンを口に咥える。二つのガラスの飲み口が口腔内でぶつかり合う。なんとか、口の中におさまった。一気飲みの定番のポーズ、腰に手を当てたいところだが、両手が塞がり、それが出来ない。
顔を一気に上げ、コーラを喉へと流し込む。二つの飲み口から激しく流れ込むコーラ。喉が焼ける感覚。思わず戻しそうになる。しかし、我慢。ここで戻してしまったら格好が悪い。体が吐き出そうとするの無視して、無理やり喉に押し込む。
喉がみるみる内に、その感覚がなくなってくる。たかだか弱酸性の炭酸が強酸性の溶解液に感じる。しかし、耐えろ! 耐えろ京平! ここで耐えなければ、どこで耐えるのだ!
リバースを要求する命令を無視し続ける。って、ぐあ! リバース欲求を無視され続け、俺の体……主に口、食道とコーラが結託したらしい。三国同盟だ。口という出口を失ったコーラは、別の場所を探したのだ。そうして見つかった出口は……そう、比較的口から近い穴。鼻を探し当てたのだった。
酸性の炭酸が鼻の粘膜を焼き払う! その衝撃で耐えていたコーラの逆流をも許してしまった。
鼻と口からコーラを垂れ流す中、視界の端で捕えたのは慌てふためく葉月だった。