一体ハンマーが秒間に幾つ往復しているのだろう。メトロームと同じ運動をしているレトロな目覚ましを止め、しばらく布団の中でまどろむ。
しかし嫌に目が冴えている。妙な話だが何故かまどろむ事すら出来ない。語学的に正しいのだろうか? まどろむ事が出来ないって。まぁ、どうでもいいか。
仕方がなく布団から這い出た俺は、手早く布団をたたみこみ押入れに収納する。いつも……と言っても此処で眠り起きたのはまだ二回だが、それでも昨日よりも比べ物にならないくらい目覚めが良い。まず、瞼が降りたり慌てて開けると言う一連のサイクルが無い。これは驚異的だ。前の街からすれば考えられない現象だ。
昨日の設定時刻のままで目覚ましをセットした為、昨日と同じく余裕がある。これが少なくとも土曜までは続くであろう。土曜になれば例え金曜までの時間にベルが俺を起こすべく喚こうとも目覚ましを止め、二時間後に目覚ましを再セットする事だろう。
そうして日曜の夜には今週に比べ数分遅れた時刻にセットされ、その次の週には更に遅く、更に次の週にはもっと遅く……っとこうして最初の週に比べとてつもない時間で起きる事になり、必然俺は登校時刻も遅刻寸前となる。
それが始業式から少しづつ毎朝の登校がスリリングになってゆく俺の一連のサイクル。毎日が退屈で仕方がない方には是非ともお勧めする。それなりに走るから、いい運動になると思う。
スラックスを履き、ネクタイを締めブレザーを羽織る。何てことの無い着替えの動作。変わりようの無いこの動作を変えてみるとどうなるのだろう。
そう例えば……スラックスを被り、ブレザーの代役となり、同様にブレザーはスラックスの代役へとなる。
想像してみたら相当気色が悪かった。だってスラックスの股のジッパーから顔を突き出して挨拶される様はあまりにも壮絶だ。しかも構造上上半身を包む事が出来ないので、その大半を前に垂らして歩く事になるのだ。そして下半身。ブレザーの袖からにょきりと生える足は構造上からして、必然的にがに股になる。しかも長さが足りないので、すね毛がビッシリ生えたたくましい足がのぞいているのだ。何ともマヌケだ。
そんな姿の草加──なんとなく思いついた──が俺に「よ、片陸」などと話しかけられたら……と思うと、自分の想像なのにも関わらず鳥肌が立った。
食事中に映像化してテレビにでも流したら、PTAから確実にクレームは来そうな想像を打ち消して、居間へと向う。かと言う俺も朝食前だったりするのだ。
居間のお膳には昨日とはメニューが違う……やはり和食が並んでいた。どうやら河本家は朝は和食らしい。手間がかからないのだろうか?
手抜きとは程遠い朝食をかっこみ胃に収める。急いで食べているように見えているのだろう。まだ時間に余裕がありますよと一言加えた京子さんが、例の笑みを浮かべながら俺の正面に座り食事を摂り始めていた。
その笑みに何処か引っかかりを感じつつも、全ての食器を空にし、それを流しに下げた。
部屋に戻り通学鞄を肩に掛け、玄関へと向かう。途中、この家の造りからして居間の横の廊下を通る必要がある。逆を言えば居間の前を通過しなければ玄関まで行き着く事が出来きないと言う事だ。
勿論今日も俺は居間の横を通過したのだが、その際開いた襖から京子さんがまだ朝食を取っている姿を視界に捉えた。視線に気が付き、俺に例の笑みを寄越す京子さん。
再び嫌な予感に駆られつつも俺はそれを心の奥に封じ込め、一言行って来ますと挨拶をした。
京子さんの返答を背中で聞きつつ、玄関へと足を進め続けた。
ローファーを履き、さて学校に行こうと玄関を開けた。
昨日と違い睦月さんは居ない。封じ込めた嫌な予感は昨日の出来事から来ていたらしい。どうやら、その予感は杞憂で済んだ様だ。
学校への道を歩む。本当は自転車で通学したい所だが、何故かあの学校は自転車通学が禁止になっているらしい。車通りもさほど多くなく、駐輪場を設ける程の広い敷地を持っているに関わらず自転車通学禁止とは理解しがたいが、まぁ色々あるんだろう。
もっとも、OKだとしても居候の身我侭は言えないがな。自転車なんぞ今の俺には、はいから過ぎる代物だ。
車の通らない静かな住宅街。どうやら近所にはあまり働き盛りが多くないらしい。通勤者が全く通らず、たまに何故かセキレイか、どこぞの婆さんがゴミを捨てに歩いている程度だ。
高齢化の動向が現れている住宅街。建物を見ればそれは一目瞭然で、河本宅の様な純和風の、それも相当年季の入った家が大半を占めている。昭和後期に建設された家はまばらにある程度で、その上敷地は和風の二分の一程度だ。その所為で時間の進行が遅くなっているような印象を受ける。
そんな閑静な住宅街を、何処からか聞こえてくるカラスとスズメの鳴き声が静かに賑わしていた。
***
部活でちょっとしたトレーニングポイントになりそうな校門前の坂道をのんびりと歩く。両端に植えられた桜が今が散り時と悟ったのか、大した風も吹いていないのにゆっくりとその花びらを散らしていた。
まだ時間的には早いらしく、始業式である昨日は誰もが早めに学校に来ていた為、その昨日に比べれると俺同様坂を登る人数は少ない。
確かに初っ端から遅刻しちゃまずかろうし、二日目からはこんな早い時間には行きたくないって事だろう。朝はゆっくりしたいのも解る。
が、幾らなんでも八時十五分のこの時間帯にこれだけしか来ていないのは少しマズいのではないだろうか。この時間帯で来ていないと言う事は皆二十分程度に来るのだろうか。
いつかだったか睦月さんが言っていた、のんびりとした校風の意味が僅か二日目にして理解出来た様な気がする。
坂を上がり切り、ようやく校門が見えて来た。そんな折何者かに肩を叩かれる。
「よ、片陸」
振り向くと草加が居た。
何となく以外だった。コイツは遅刻常習犯でその上、単位ギリギリで進級した様なイメージがあったからだ。
同時に今朝妄想した服装が頭を過ぎり、一瞬その気持ち悪さが蘇った。
「なんだ、普通に制服着ているじゃないか」
「普通以外にどんな着方があるんだ?」
ごく普通の疑問をぶつけて来る草加。当然だろう。朝俺の妄想によってお前は犯罪予備軍に成り下がっていたのだから、お前は知る由も無いのだ。
しかしこのまま黙っているのも何か面白みの無い。妄想の内容を口に出すとしよう。ただし俺の妄想だと言う話を抜いて。
「アレだ。ブレザーを下に履いてスラックスのジッパーから首を出すとか。それともウルトラマンのジャミラ見たいな上半身にするとか、ツインテールとか言いながら頭に二匹の毛虫つけて来るとか……」
「馬鹿かお前、それじゃただの変態だろ。それに最後の二つは制服とは言い難い」
冷静に冗談を返された。追加で言った事が的確なツッコミとなって帰ってしまった。それも呆れたような表情で言われた。
マズい。これじゃ京平クオリティが名折れになってしまう。
脳内に眠る、あるゆる変態思考を駆使してコイツを狼狽、あるいは感情を高めさせられる答えを探す。
「じゃ、アレだ。下半身、上半身共にネクタイのみで来るとか。これなら制服だし文句無いだろ。風が来たらオー、モーレツとか言えるぞ。やったな、とてもセクシーだ」
「捕まるわ! ネタが古い! そしておもむろにネクタイを外そうとするな!」
やっと望む様なリアクションが出てきた。決死の覚悟で俺がそれを目の前で再現しようとしたのが伝わったのか、それとも予想以上の変態思考が来たので驚いたのか、この際どちらでもいい。
もっとも俺はそんな変態見たいな事を体現する程堕ちてはいない。あくまで相手の心理を追い込む為の罠だ。如何にして俺がそれを本当にやるかと思わせるのが大切なのだ。
緩めたネクタイを再び閉めた。
「……お前、予想以上に変人だな」
溜息と共に吐き出された言葉。ありがとう、それは俺の中では最高の褒め言葉だ。
「そう言うお前は意外と来るのが早いんだな」
「考えても見ろ、朝の時間帯でも電車が一時間に四本しか出てないんだぞ。必然的に早くなるだろ」
そう言えばそうだった。確かに学校のすぐ傍にある電車は本当に多い時ですら一時間に四本しか出ていないのだ。
つまり一方向に二十分。上り線、下り線を問わないならば十分に一回しか来ない。その上運賃も結構高い。ローカル線の悲しい宿命である。寧ろ、何故今日まで廃線にならないのかが不思議な程である。
「更に俺は電車を一本乗り換えなければらなない。そっちはローカルじゃないから本数は出ているものの、こっちの路線状況を考えると、どうしても早い時間に出る事を強いられる。正に電車通学の暗部だ」
まるでシェイクスピアの劇の様な台詞と身振りで嘯く草加。
時間的にも通勤ラッシュにハマるから、結構ハードな通学となりそうだ。
通勤ラッシュ……? その言葉に、俺の逞しい妄想力が再び唸りを上げて暴走し勝手に草加を変態化にさせてみる。
よくニュースで取り上げられる電車内の事件。そして俺の妄想力によって付加される変態発言。これを組み合わせれば、誰もが引いてしまう変態を作り出す事が出来る。
ゆえに俺は、変態メーカー片陸の異名を前の学校に轟かせていたのだ。もっとも俺の親しい友人数名限定の異名であるが。
「成る程。そこでお前は痴漢するんだな。フヒヒ、嫌がれ嫌がれ。俺のマグナムが喜んでるぜ、おお、こいつの尻は上玉だ、とか言いながらさ」
あまり完成度のいい変態ではないが、それでも単純なコイツの事、きっと反応してくれるに違いない。
いや、反応しない事があるであろうか。もし反応しないのであれば、それは現代社会で錬金術が実用可能な事が判明したり、あらゆる原子を無の状態から作り出しているパワースポットが発見されたりするのと同じ意味であろう。
実に遠まわしな喩えになってしまったが、要はコイツが反応しないって事は、金輪際有り得ないと言う事だ。
「するか! それじゃ俺が変態だろ!」
「しかもターゲットはおっさんだ。傍から見れば相当気色悪いに違いない」
もう呆れてモノを言えない、そんな表情を見せる草加。
つまり俺の作り出した妄想が、本物の草加に打ち勝った瞬間であった。
見たか、俺の素晴らしい妄想力と発想力、そして見事な話術を。話している相手をこうも簡単に呆れさせる事は、そう簡単な事ではないのだ。
「……お前、妄想が酷すぎるぞ……そろそろ教室に行くぞ」
呆れきった草加は逃げるように、そう切り上げ大きく口を開ける昇降口に呑まれて行った。
こんな所で一人ぼうと突っ立ている意味はあるまい。俺も同じように昇降口を潜り、下駄箱に向かった。
鼻に突く、校庭から入り込んで来たであろう砂と土の臭い。それが何故か妙に懐かしく思う。猛烈な既視感。
何故だろう。これまで生きてきた十六年の歳月による既視感では無い。そんな酷く曖昧にも関わらず、確証めいた感覚。
自分では無い誰かが見た事が、そのまま自分の脳に入り込んだ様な感覚。一抹の気色悪さと、自分が自分以外の者の記憶を持っている事の不安。
それは自分の中に他人が居る様な不安だ。
(馬鹿馬鹿しい)
内心で吐き捨て、下駄箱から上履きを引っ張り出す。同時に脳裏に過ぎったアホらしい不安を打ち消し、上履きに足を潜り込ませる。
かたかた喧しく音を立てるすのこの上を歩き、自分の教室へと続く廊下に進む。
低い位置にある太陽の所為か、まだ廊下は若干薄暗くどこか不気味である。何か出てきそうな雰囲気だ。
例えばだ。学校の怪談でとても有名な花子さんや、超非現実的な魔法や剣と言った類のモノ、または奇想天外な出来事やそれに匹敵する変人とかだ。
もし本当にそんな事があるのであれば確かに面白そうだ。しかし面白そうであるが、一般人の良識から考えたらたまらないだろう。
いきなり隣に座るクラスメートが、何処からか取り出した刀を持って授業中の教室を飛び出したら……間違いなく一旦授業はそこで止まり、とても迷惑な事になる。
しかも電波な台詞を吐き散らしながらだ、授業が再開しても気になって気になって仕方がなくなる筈である。つまり集中できない。
無論、俺が巻き込まれる事は金輪際あり得ん筈だ。何故ならその時点で俺はソイツの事を避け、一つの接点も無く学校生活を送る事なるからだ。
面白主義ではあるが、そんな唐突に刀を振り回す奴の傍には居たくない。秒速の域で俺が絶命してしまいそうだ。面白主義で現実主義、相反する物を持っている俺は矛盾しているのであろう。
もっともこれは俺の妄想。そんな事実際に起こり得る筈が無い。平凡で安穏な学校生活をいきなり壊す様な、それでいて非現実的な事象が起こるのはSFかファンタジーの物語の管轄だ。
少なくともこの現実世界の管轄ではないのだ。異世界なんぞある訳無いし、猛獣や珍獣を除く凶悪な生物も、魔法やオーバーテクノロジーも存在しない。それが現実。
妄想と教室へと進める足を並列させて実行させる。なんて事は無い、ただ考え事をしながら歩く事と同じだ。
しかしながら実は考え事をしながら歩くと、意外と目の前が見えなかったりするものだ。それは考える事に集中してしまっている為、比較的無意識下で実行可能な歩く、と言う事に対して注意が回らなくなってしまうからだ。脳をフル稼動させる事と無意識下での行動。どっちに注意が回るかは火を見るより明らかだ。
だが……この俺は違う。妄想と歩行の両立を膨大な時間を賭け体得したのだ。つまり、歩行だけでなく妄想も比較的──完全では無いが──、無意識下の元で行なえる事に成功したのである。
名付けて、ダブルビジョン妄想だ。テレビの二画面表示の様に脳内を二分割するのだ。しかもまた膨大な時間を使えば、今度は三画面も夢ではない。
想像力に欠けると嘆く諸君。諦めるな。人間毎日妄想をすれば想像力は付く! 俺がいい例である。毎日妄想に次ぐ妄想によって、今では比較的無意識下での妄想が可能になったのだ。
駄目人間の定型な気がするが、そこは敢えて何も言及しない事にしよう。
視界に自分の教室、二-五と書かれたプレートを視界に入り、妄想をそこで切り上げる。
開けっ放しのドアを潜り、自分に宛がわれた教室に入る。まだ新しいクラスに慣れていないのか、喋り声が少なく静かであり、また鞄は机の脇に掛けてあるものの席の持ち主は教室には居ないと言った状況だ。
多分席を立っているのは他のクラスの友達に会いに言っているのだろう。転校生の俺はそんな奴居ないから、必然的に教室に居る事になるが……まあ、いいだろう。
さっそく机に突っ伏して寝込んでいる草加の前の席に座り、鞄から今日使う教科書を取り出し机に突っ込む。廊下側のラシャに張られた拡大された時間割によると一時限は古典。
黒板の中心のすぐ上辺りに掛けられている時計に目を遣り現在時刻を確認した。現在午前七時二十二分。昇降口で五分は草加をからかっていた事になる。
後ろを向けばだらしなく突っ伏して寝ている草加が居る。どうやらコイツ、電車通学で朝早く起きている所為か、こんなところで足りない睡眠欲を満たしているらしい。
ブチ壊してやりたくなるが、先程さんざんからかった手前、流石にそれをやってしまうのは鬼畜の域だろう。変人の管轄外だ。
さて……こうなると暇である。本でも持って来ればそれで暇を潰せるだろうが、生憎俺はあまり本を読まない。読むとしても、それは流行の大衆小説や映画の原作になったもの程度だ。純文学なんて教科書を除いてしまえば、この方読んだ事が無い。夏目漱石とか、芥川龍之介とかにはとても縁が遠いのだ。
図書室に行くにしてもこの時間帯開いている筈も無い。トイレはすぐに終わってしまうし、便意も尿意も更々無い。となると……さて、どうしたものか。
意味も無く俺は立ち上がり、入ったばかりの教室を出る。因みに未だに時間潰しは見つからない。このまま気分次第でほっつき歩くのもいいが、昨日学食に行ったはいいが帰り道が解らなくなったトラウマがある。迂闊に歩くのは命取りだろう。
さて、そうなると俺が迷わない範囲で、かつそこで何か意味のある行動出来る所となる。昇降口は、今戻ってもただの無駄足なので没。学食は、今開いてないから没。となると、距離は短いが俺の行く場所は一つしかない。
各階に、二台設置されている自販機だ。一本道の廊下、その中腹の壁に寄り掛かる様に安置されている自販機に向かう。同時に脳内のストップウォッチのボタンを押す。歩いて何秒で付くかを、誤差が酷すぎる体内時計で計ろうというのだ。頭の悪い俺の事だ、歩いている内にきっと今何秒かを忘れてしまうに違いない。
そうなればやり直しをする事になり、それを何度も繰り返せばある程度時間は潰れるであろう。正に完璧な計画だ。
いつも通りのペースで歩く。集中して歩くと、人間の歩行速度は思った以上に速い事が実感できた。証拠にどんどん目的地の自販機が近づいていった。
俺は自販機と反対側の壁の一点で結んだ想像上のゴールラインを超える。同時に脳内のストップウォッチを止める。
タイムは十五秒。自分で数えたタイムの為、誤差はプラスマイナス三から二秒と言った所だろう。つまり実際のタイムは十八秒から十二秒の間。
そこで俺は致命的な計画のミスに気が付いた。俺は何度も失敗して時間を潰す予定だった筈だ。そのために歩くと言う動作と、秒数を数える事を並列して行なっていた。
小さい頃の経験から、歩きながら秒数を数えるのは意外と難しく、慣れていないと数えているモノが、いつの間にか秒数で無く、歩数に変わってしまう事が多い。
しかし今の俺は何の苦も無くそれをこなしてしまった。それは日々の妄想で編み出されたダブルビジョン妄想の産物、思考と動作の同時処理の影響だろう。
集中して歩いていたものの、どうやら歩く事よりも無意識下で秒数を数えていたらしい。
完璧な計画はものの十五秒で打ち砕かれ、俺の目の前で内部の冷蔵庫の冷却音を立てて聳え立つ自販機。それは俺に買えと無言の圧力をかけている様だった。
それに折れ、財布を取り出し小銭を取り出し、小さいサイズのお茶を買う。昨日は安牌を取って知っている飲み物を買ったのだが、人生はチャレンジだ。因みに俺が買ったのは、緑茶風チャイと言うとても胡散臭いお茶で、ラベルにはココア色と緑色がマーブルとなって交じり合っているイメージ図が描かれている。正直気味が悪くて、買ったのを後悔したが、やっぱチャレンジだ。
緑茶風チャイを引っ提げ、教室に戻ろうと体を来た方向に戻した矢先だ。自販機に向かってくる女子生徒が居た。今の時間帯、反対方向のクラスの奴に向かう奴で、尚且つ女子生徒である奴は少なくは無い。
ただ、俺の目に留まったのは漆黒の制服ではなく正反対の色、つまり純白の制服だ。
そういえば、昨日も此処に入れ違いで来ていた気がするソイツは、見覚えのある奴だった。
「よ、葉月」
昨日俺を普通科の昇降口に案内してくれた女子生徒、葉月成美だった。
「おはようございます、片陸君」
俺は一言おはようと返し、自販機の前に立ち小銭を投入口に入れる葉月を見る。
二つある自販機の内、迷いも無く片方を選んだ事から初めから、目的の物は決まっている様である。その証拠に同じく迷いも無く製品を選ぶボタンを押し、取り出し口から製品を取る
。
小さいペットボトルに緑色のラベル、一瞬俺と同じ緑茶風チャイを買ったのかと、葉月の商品選択センス──自分の事は棚に上げて──を疑ったが、その手に持つ飲み物は昨日俺が買った梅ジュースだった。
ふと、俺は疑問が浮かびそれを口に出した。
「多分あっちにも自販機あるだろ。何でわざわざこっちの方に来るんだ?」
「ありますけど……でも、これ、此処にしかなくて……」
なるほど、そういう事か
。
しかし暇潰しなら兎も角、わざわざ遠い校舎まで来るまでこの飲み物を買う価値があるのか?
確かに美味い事は認めるが、そんな労力を使ってまで買おうとする考え方は、俺には出来ない。余程思い入れの強いのか、またはこれ以外に気に入った物が無いのかのどちらかだ。
手に握った小さめのペットボトルをその内でころころ転がす葉月。俯き加減にそれをする辺り、葉月の消極的な性格──ただし第一印象──を体現している。その上、気が付けば葉月は昨日から話す時、こちらの顔を見ていないのだ。これを消極的な印象と言わずにして、なんと言えるのか。
そんな消極的な葉月が自分と同じ、白の制服ばかりの療養科の校舎では無く、反対色の、漆黒の制服で溢れる、普通科の校舎に来る。今ではその事には慣れてしまっているだろうが、初めて来るのにどれだけ勇気が必要だった事だろう。
消極的だが、自分で進める事の出来る性格。矛盾している様な気がするが、それが二日目で判断した葉月の性格だ。
この時期だと猫を被っている生徒が多いのだが、不思議と葉月はこれが素の性格であると妙な確証があった。それが何かは、解らないが、兎に角そう思う。
黒い制服の往来が激しくなって来た。同時にそれらが、白い制服の葉月に特異の視線を寄越しているのが解る。
生徒の往来が激しくなった、と言う事は始業時間が迫っている事である。それはつまり、遅刻になる可能性が生まれ、時間を負う毎に高くなっていくと言う事だ。
そろそろ此処で突っ立て居るのも限界であろう。俺は兎も角、別校舎から来ている葉月の方が。
「そろそろ教室に戻らないとホームルームに遅れるぞ。学校に来ているのに遅刻になるっていう、馬鹿馬鹿しい事になるぞ」
「そうですね。それでは」
昨日同様、律儀に礼をして来た道を駆け足で戻る葉月。
そろそろ俺も教室に戻った方が良さそうだった。
さらに生徒の往来が激しくなった廊下を、鞄を引っ提げて教室に向かう連中に混ざり教室に戻る。
登校したとき同様にニ-五の教室に入り、自分の席に座る。時計を見ると予鈴が鳴るまで後三分の余裕がある。にも関わらず鞄から教科書を取り出して、準備をしている生徒が多い中、しかし、幾らかの空席もしっかりと存在している。つまり、まだ登校していないと言う事になる。
この時間帯に数名の生徒が登校していない時点で少しおかしいする気がする。第一この学校はこの近辺で一番の進学校ではなかったのではないだろうか?
勉強は出来るが、時間にルーズな連中が集まる学校……嫌だ、とても嫌過ぎる。自分も前の学校では遅刻か否かのタイミングで登校する連中の一人ではあったが、こんなにもそんな連中が多いと嫌になる。
寧ろ、この学校の時間においての、生徒指導はどうなっているのだろうかと疑問に思うくらいだ。見た限りでは、脱色して髪の毛を染めている連中は居ない為、頭髪指導はしっかりしているのであろう。そんだけ厳しければ遅刻指導もしっかりして欲しいものだ。
もっとも、恐らくその内自分も教室に滑り込まなければ間に合わない様な時間帯で、登校する様になる自信はあるが。そんな状況になるのは何回日曜日が過ぎた頃だろうか。少なくとも、四月中にはそんな事にならないように努力はしたい。
そろそろ草加を起こした方が良いかと思った矢先、予鈴が学校を鳴り響いた。同時に、教室の戸が開き、教室に残っていた空席分の生徒が、必死の形相で雪崩れ込んだ。
その様子に内心ビビッた俺だが、周りの生徒を見るといつも通り、と実にすました表情で雪崩れ込んだ生徒を生暖かく見守ってた。どうやらそんな事は日常茶飯事らしい。いずれ俺もあんな風に慣れてしまうのかと思うと、ほんの少し憂鬱になった。いや、寧ろ俺の場合、その生暖かい目で見守られる立場になってしまうのだろう。
空席が埋まった直後、少し格好をつけた言い方をすれば刹那のタイミングで担任の教師が教室の戸を開け、起立と号令を掛けた。
いつの間にか起きていた草加も合わせて、クラス全員が立ち上がり、担任に礼をする。着席した後に続いた担任の連絡事項を、俺は聞き流した。
***
四時限目終業のチャイムが鳴り、めでたく午前中の授業は終了となる。そして変わりにやってくるのは昼食の時間を含めた二十分の休み時間だ。
教室の様子は静まり返っていた授業に比べある程度賑やかになり、生徒達は各々の行動に移る。それは、鞄から弁当を取り出し自分の机で昼食を摂る者、鞄から弁当を出すまで同じだが、それを引っ提げて教室を出る者、財布を確認し、教室を出る者──大抵、この三つだ。
と、言うよりこの三つ以外に昼食時の行動は無く、あるとすれば財布も弁当も忘れた哀れな奴が、机に突っ伏して不貞寝をする程度だろう。
「片陸、お前学食?」
後ろの席から草加が話しかける。振り向いて、弁当の包みを持っていないのを確認した。つまりコイツは学食組らしい。
「居候の上、弁当を作って貰うなんて贅沢過ぎる。よって学食」
かと言う俺も学食組なのである。貧乏が宿命である学生が、そう毎日学食を食っていたら破産になるのだが、幸いな事に俺は去年バイトに勤しんでいたので、少なくとも口座には金はある。
高校に入って部活に入らなかった俺は、学業が本業なのにも関わらず、ほぼ毎日バイトを入れていた。順調に金は溜まり、このまま行けば相当稼げるのでは無いだろうか……と思った所で俺は重大な問題に気が付いたのだった。
それは、あまりにもバイトを入れすぎた結果、そのペースで一年行けば、所得税を取られると言う事だ。性格の悪い俺は、所得税ギリギリの所でバイトを辞め、事なき事を得たのだが……いやはや、恐ろしいものだった。因みに、そんな高額バイトがあるのかと聞かれても、教える気は無い。
話が逸れたが、兎に角俺は多分一年間学食に通っても破産はしないって事。
「や、君らも学食か」
不意に掛けられた声、草加のでも、勿論俺のでも無い声だ。と、言うより明らかに俺の左手側から聞こえてきた声だから、その時点で俺らの線は無いのだが。
俺は声のした左方向に首を回し、声の主の正体を見る。草加も同様だった。
「気さくな男だった。低身長に、かなりのベビーフェイス。その顔には、常笑みを絶やしていないそうで、寧ろ、その表情を糊かなんかでくっ付けのではないか、と馬鹿げた妄想に駆られる」
敢えて思ったことを口に出し、そのまま言ったのでは面白くないので小説風にアレンジしてみた。勿論それは、声を掛けたクラスメートの見た限りでの印象である。
クラスメートはいきなりの俺の言動に面を食らったらしく、一瞬顔に貼り付けたようにそのままだった笑みが崩れたが、すぐにそれを戻した。
「やっぱり面白いな君。さっきの一気飲みもそうだったけど、この学校ではあまり居ないタイプだよ」
俺の中の時間が止まる。さっきの一気飲み……その言葉が時間停止のキーワードであった。
そう、あれはホームルーム終了直後の事だった。初めは葉月と出会う直前に買った緑茶風チャイをどう飲むかを悩んでいた事だった。
勢いで買ってしまったはいいが、編成されて間もないこのクラスでどの様にこの奇抜な飲み物で、どうネタにするか……ましてや俺は転校生。ただでさえ、クラスの雰囲気が初々しい事この上ないのに、そのハンデはキツかった。
机に置いた茶色と緑がマーブル状に混ざる気味の悪いラベルと睨めっこしていると、そこに草加が机から身を乗り出して声を掛けたのだ。何を考えている、と。
そして後ろの席から、俺の視線の先、つまり机に鎮座する緑茶風チャイを覗いたのだ。直後勢い良く椅子に座り直す草加を背中で感じた俺は、思わず振り向くと、恐怖を顔に貼り付け腰を抜かした草加が居たのだ。
それを飲むのかと恐る恐る聞く草加に何気なく肯定の意を表すと、さらに腰を抜かし、椅子の背もたれを滑って行った。ただ事では無いと思い、その訳を聞いてみると、予想以上の答えが帰ってきたのだ。
去年の三学期の暮れ、突然学校の全ての自販機に緑茶風チャイが出現したらしい。新しい商品が出れば、大方の人間は少なくとも興味は持つ。まして、娯楽の少ない学校と言う場所では、その物珍しさに釣られて買ってしまう確率はおのずと高くなる。
草加がそれを買ったのは出現した当日の朝だったらしい。当時、自販機を通過してすぐの場所に教室が位置していた草加は、すぐにその存在に気が付いたとの事だ。吸い寄せられるようにしてそれを買い、教室に入ってそれを開封のだ。
口に広がった苦く、甘く、渋く、さらに辛く、ドロドロな上、ざらりとした有り得ない感触が、その日の草加の最後の記憶だったらしい。
気が付くとすでに外が暗くなった家だったそうだ。草加の両親が言うには、目が虚ろではあったが、しっかりと夕方に自分の足で帰ったとの事だ。その日に同じ飲み物を飲んだ生徒が、同様の体験をしたそうだ。
そして、それを聞いて調子に乗らないわけが無い俺ではなかった。早足で教壇に立ち、少し音を立てて緑茶風チャイのペットボトルを教卓に置いて、教室の視線を俺に集めた。奇異の視線で俺を見た後に、音の発生源である緑茶風チャイを見たときの驚き、恐怖したクラスメイト達の表情は決して忘れはしないだろう。
俺はこれを一気する! と、声高に叫んだ後の俺を更に乗せようとするノリのいい野次連中、草加を初め、恐らくこのチャイの被害者であろう生徒達が必死に諌めようとする気のいい連中、何コイツと、奇異を通り越して特異の視線を寄越す冷たい連中、反応はそれぞれであったが、大半は野次と気のいい連中だったので俺は行動に移したのだった。
今思えば、あそこで気のいい連中の言うことを、聞いておけば良かったのかもしれない。ラベルに書いてあるフレーズ『前衛的! インドと和の融合! チャイと緑茶はもちろん、わさび・砂糖・スパイス・ハチミツをブレンドした不思議な味覚!』を傍目に入れつつ、開封したそれを口に一気に流しこんだ。
口に入れた瞬間、有名な吸血鬼が時を止めた様な錯覚を起こした。確かに、これを飲む奴がいたら、必死で止めたくなる不味さだった。本当にしょっぱさの除いた味覚が同時に発現し、その上ザラザラでドロドロの妙な口当たりも確かに存在していた。口に含んだ状態で静止する俺を見守るクラスメイト。それは好奇の視線であったり、心配の視線であったり、特異の視線だったりした。
喉で液体が強制的に止められている感覚が確かにあった。今思えば、体が拒否していたのだろう。しかし少なくとも、好奇の視線には答えなければならないと言う、妙な義務感が存在していた。必死でやめろと悲鳴を上げる体の訴えを、凌駕する決意で堅牢に閉じられている喉をこじ開けた。喉にまで不味すぎる味が支配したのは生まれて始めての経験だった。
その時耳に聞こえたのはペットボトルから発せられる、ごぽりと言う水音と、野次の歓声だった。それを最後に俺の記憶は吹っ飛び、記憶の針が再び時を刻んだのは二時限目の数学の時だった。一時限目の古典の内容は不思議な事に覚えていたが、自分が受けたと言う確固たる確証が無いのが気味が悪かった。
ただ、自我が戻っても緑茶風チャイの後遺症は残り、たびたび例の味覚が襲ってきたのだった。その襲撃を受けなくなったのはさっきの授業と途中までであったから、その破壊力は相当な物であろう。戦時中にこれを敵国にばら撒けば勝てそうな勢いだ。
青ざめた俺を思ってか、それとも学食の席を危惧しているのか、どちら解らないが兎も角草加がさっさと学食に行こうと切り上げた。
***
昨日誰も居なかった学食を見ただけにあって、混雑具合とのギャップに困惑した。
入った途端に視界に飛び込んだのは、広い学食を占拠する白と黒の大群だった。全校生徒がどちらかと言えば多い学校とは言え、予想外の人数だった。
更にその多い人数が密集している地帯が二つ存在している。一つは学食内にある購買コーナーと、食券売り場である。その両所は正に戦場と言った様であった。
その戦場と化している食券売り場にこれから俺らが突入するのだ。と、言っても既に草加と教室で声を掛けた男、武田正樹──タケダ マサキ──は突入した後なので、残るは俺のみとなっているのだが。
正直に言おう。学食の食券売り場がこんなにも血みどろな争いをするとは思わなかった。少し観察してみよう。丁度今、食券売り場に突っ込んだ生徒が居る。しかし突っ込むのに失敗したのか悲鳴と共に人ごみの藻屑と化した。
戦慄した。たかが食事にこんな戦争を繰り広げるこの学校に戦慄した。しかし、これを乗り越えなければ俺は食事にありつけない。それだけは避けたい出来事だった。
「いざ。死地に参入せん……」
不思議とそんな言葉が勝手に口から漏れた。正に死地に送られる兵士の気分だった。
覚悟を決め、ダンゴとなって食券を争う生徒達の中に飛び込む。何とかダンゴの中に潜り込めたが、その中は想像以上に熾烈な戦況を極めていた。肘や手がたびたびこちらに向かって飛んでくるのだ。
これなら人ごみの中の藻屑と化するのも頷ける。いや、寧ろこれは部活をやっていない奴にはキツいだろう。当然、そんな事をやっていない俺にもそれは言えることであり、正直今すぐにでも藻屑になってしまいそうだった。
人ごみを掻き分け、何とかきつねうどんの食券を手に入れる。その頃には俺はボロボロと言ってもいい状況で、あちらこちらに痣が出来ている様な感覚を貰って来ていた。いや、実際数箇所痣を貰ってきているだろう。
その食券をうどんに変え、先に戦場から生還した草加と武田の姿を捜す。奴らの姿は比較的早くに見つかった。席があちらこちら他の生徒で占領されているせいか、三人で食うには広すぎるテーブルしか陣取る事に成功しなかった様だ。この盛況を見れば上出来なのだが、たったの三人でデカイテーブルを使うのは、少しの罪悪感が付きまとっているのも事実だった。しかし、折角キープした手前と、まごまごしていると相席……という形で俺の食う場所が無くなりそうだった。
付きまとう罪悪感を殺して、草加と武田がキープしているテーブルへとを足を進める。途中所在無く……と言うより、単にあいている席を捜している生徒に出くわした。見知らぬ他人なら非情にも見捨てる所だが……
なんだろう。本当に昨日からつくづくコイツと俺は縁があるようだ。
一度うどんを草加と武田がキープした席に置き、挙動不審に辺りを見渡すソイツに声を掛ける。途中何処に行くのか、と言う二人の声が聞こえたが無視した。
どうやらコイツとは色々と縁があるようだ。
「挙動不審だな」
「席……空いてませんね……」
赤いプラスチック製のトレイを持ちながら人がごった返す学食内を見渡す。席は空いていないのは、俺も知っている。いや、寧ろ草加と武田が居なければ、俺が今の葉月の立場になっていただろう。
俺なら席が埋まってしまっているのならば、相席、または迷惑にもその外に持っていき、教室なり、中庭なり、トイレなり、校庭とかで食うだろう。トイレは正直キツイが、猛烈なリクエストがあればやって進ぜよう。
そんな変態行為はともかく、相席の一言を葉月は掛けられるのだろうか。多分、無理だろう。昨今の女子高生の中では珍しいくらいの、消極的性格である葉月がその一言を掛けるのに相当な勇気を要する事だろう。因みに昨今の女子高生の印象は俺の独断と偏見によるものであるが。
だったら俺はどうするのであろう。ただ、葉月を見かけただけでコイツの傍に来てしまった俺は何がしたいのだろう。そして、葉月は席を探しているのだ。
なら、俺がしたい事はただ一つだろう。
「葉月、実を言うとな。俺ら迷惑にも八人席を陣取ったんだ。人数は俺合わせて三人。どう数えてもあと四席は余る。どうだ、来ないか?」
「……いえ、片陸君に迷惑掛けるから……」
予想通りの返答だ。しかし俺はそんな事ではめげない。と、言うより八人席を三人で陣取るのはくどいようだが、罪悪感があるのだ。
それに、昨日の事もある。遭難の危機から救ってくれたのは他ならぬコイツなのだ。これ位の恩返しは俺だってしたい。
「いや、返ってそっちの方が他の連中に迷惑だ。言ったろ? 迷惑にも三人で八人席陣取ってるって。だからさ、席を埋めてしまおうって事。席を埋めるのなら、知り合いの方がいいだろ? それに……俺この学校での知り合い少ないしさ」
何とか葉月を説得する為に、想定される返答を見越した事を話す。因みに想定した返答は、他に相席をしてくる人が居るのでは、と他にも知り合いが来るのでは、と言う返答だ。
一度キープした席に視線を寄越し、二人の様子を確認する。明らかに早くしろ、と俺を急かしている様子が見て取れる。
こちらも早くしたい思い出山々なのだが、如何せん葉月が思った以上に悩んでいるのだ。手を無理矢理にも引っ張って行きたいが、葉月は両手でトレイを持っている上、周囲の目もある。無理矢理女子生徒の手を引く男の図なんて余りにもみっともなさ過ぎる。
もう一度視線を席に持っていこうかと思った矢先、小さくお願いしますと葉月が呟いた。つまり、肯定の意だ。
やっとか、と思うが実際のところあまり時間は経ってはいないだろう。時間に直せば一分も無いに違いない。それなのにやっとと思わせるのは何故だろう。それだけ葉月の考える時間の濃度が濃かった為だろうか。
兎に角葉月は了解したんだ。俺は一言、付いて来いと声を掛けキープした席へと足を進めた。
葉月以外の席を探している生徒達がいつの間にか増殖し、ジグザグに歩かなければ前に進めない状況になっていた。後方に少し神経を集中させると、何とか一つの足音……つまり葉月が俺に付いて来ている事が解る。
なんとか席にたどり着き、うどんのトレイを置いた場所から近い椅子に座る。丁度草加と武田とは対面を向く形である。何時座るかのタイミングを掴もうとしていたらしい葉月も、俺が座ったのを機にして俺の隣に座った。
……葉月よ、何故俺の隣に座るのだろうか。見ろ、ただでさえ俺がお前を連れてきただけで妙な目で見られていたのに、お前が隣に座ってしまったから、訳ありの二人みたいな目で見られてしまっているだろう。
「……まず、片陸。事情を聞こうか」
好色な気色の悪い笑みを浮かべた草加がまず食いかかった。睦月さんの事を盾にして黙らす事も出来るが、このタイミングでそれをすれば、余計に怪しくなるだろう。取り敢えず、こいつらが何を誤解しているかは一応解っているつもりだ。その行動は火に油だろう。
武田は武田でなにやら、俺と葉月を見比べ、何故か納得した表情で武田の前にあるトレイに載せられたカレーを食い始めた。
「昨日な、学校探検してたんだよ。そしたらな、迷って遭難寸前の所を助けてもらった。その恩人が、どうやら席が無くて困っているようだった。だから連れて来たって事」
「小学生みたいなやっちゃな……ま、いいか。取り敢えず自己紹介から行くべきだな、俺は草か……」
その時点で草加の自己紹介は終わる、と言うよりも中断させられた。
原因は唐突の襲撃。第三者の攻撃によって草加はテーブルに顔を伏せる形になり、自己紹介で次に紡ぐ筈だった、三成のみが珍妙な声になってしまった。
文字で表すのも、ほぼ不可能な声を発しながら草加を撃沈させた攻撃を詳しく説明すると、赤いトレイが草加の脳天……と言うより後頭部辺りに直撃したのだ。
「みつなり〜、なんかいい席キープしてんじゃん。これは私に対する愛の表現? や〜ね〜、私は三成如き、眼中に無いから。いや寧ろアウト・オブ・眼中?」
攻撃した奴は女子生徒だった。見事に草加を撃沈させたトレイにはカツ丼が乗っていた。如何にも攻撃的な顔付きで、その象徴として釣り目が挙げられる。髪の毛はショートと言った感じで、若干のシャギーが入っている。
ニヤついた表情で、残酷な一言を草加に浴びせている女子生徒は黒の制服、つまり普通科の生徒の様だ。それにしても相席を躊躇っていた葉月とは、大違いの行動だ。知り合いとは言え、強烈な一撃をかまし、同様に強烈な一言を浴びせるこの女子生徒……只者ではない。
女子生徒と目が合い、しばらく見つめ合う。見つめ合うとは言え、そんな青春染みた感情は無い。ただ『今の一撃どうだった』、『ナイスアッタックだ』と言った意志の疎通である。初対面でこんな事出来る事が我ながら不思議だが、思うに、どうやらコイツ、俺と同じタイプの人間かもしれない。
俺は親指を立て、彼女の勇猛果敢な行動を称えた。俗に言うサムズアップである。それを見て調子に乗ったらしい彼女は、器用にトレイを左手一本で持ちながら、それに置かれた箸を開いた右手で持った。そしてカツ丼の上のグリンピースを摘み、草加のYシャツの襟から覗く、首筋に入れようとした。首を伝って草加の腰にまで届く寸法である。
そして、腰に入ったグリンピースは草加が動いた際に潰れ、程よく加熱されたそれは皮膚を軽く火傷させるのであろう。その火傷したときの反応を考えてみると……実に愉快だ。
「……俺はお前のパシリか! 後、アウト・オブ・眼中はおかしいからな。仮に合っているとしても意味が被ってるし……てかお前さらりと酷い事言ってんな!」
グリンピース進入が阻止され、思わず舌打ちをした女子生徒。しかし同様に俺も、愉快な事が見れなくなってしまい、少し不満である。首を伝って草加の腰に触れるはずだったグリンピースは、今やその行き場失った
。
悲しく箸に挟まれたグリンピースの処理を一瞬考えたのか。女子生徒はグリンピースに一度視線を下ろし、次にそれをトレイ上のカツ丼に向けた。そして若干のタイムラグの後、摘まれたグリンピースをカツ丼に戻した。
半ば吼える様にして、攻撃した主に振り向いた草加に対して、グリンピースをカツ丼に戻した女子生徒は一度考え込むような動作をした後、冷静に、そして冷酷にこう言い放った。
「幾ら何でもパシリとは言わないよ。そうね、下僕か奴隷か人形のどれかね。三成、どれがいい?」
完全に人権と言う概念を無視した、かくも恐ろしい答えである。それでも俺にとっては、グリンピースに取って代わる、十分に愉快な事態だった。
「俺の人権は無視か! お前鬼畜だよ!」
「何言ってんの。あんた私の部屋で私の制服嗅いで、それもズボン下ろしながら興奮していた所見られてさ、口止めと言わんばかりに、私に全ての人権を預けたじゃない。感謝しなさいよ。そんな人には言えない事をしっかりと黙っている私にさ」
司と呼ばれた女子生徒の爆弾発言。まさか草加が俺を超える変人、いや、これはもう変態の域だろう。兎に角、俺以上のクレイジィさを誇る男がすぐ傍にいるとは思わなかった。
しかも俺のクレイジィさとは完全にベクトルの違う方向、性的趣向による奇異さ、俗に言う犯罪レベルの変態であるから手に負えない。因みに俺のクレイジィさは、恐らくリアクション芸人のそれと同じであろう。
完全に状況に置いて行かれた葉月が、女子生徒の発言だけは運悪く耳に入れてしまったらしく、驚愕と言った表情をこちらに向けてきた。挙句、我関せずの態度を貫き、優雅にカレーを食っていた武田でさえも、その発言に進めるスプーンを止め、悲しい物を見る目で草加を見つめた。
純情そうな葉月をそんな変態の餌食にさせない為にも、葉月の目を手で覆った。まるでこんなもの見ちゃ駄目だと、子供に諭す母親の様に。そして俺は、そんな変態を冷たい視線で見る。
「そんな設定は無い! ってこら、片陸引くな!」
悲しく言い訳をする変態。目を隠した葉月は少しパニクッているが、変態に汚染されない為の、最良手段がこれなので許して欲しい。
「何、本気にしちゃってんの? 冗談じゃない。ほら、あんたがそんな態度取るから、皆引いちゃってるわよ。どうでもいいけどここ、座るね」
混乱を引き起こした女子生徒の冗談発言で、やられたと内心で呟く。そして同時に確信した。この女子生徒、間違いなく俺と同じ部類の人間、つまり奇人変人の部類に入ってるだろう。
ここは一つ、俺も便乗して何か鬼畜発言をするべきでだろう。例えば……そうだ、今朝言った親父痴漢疑惑を話すべきだっただろう。さも、草加がやってのけた様に話せば、ここに居る全員の草加の印象はがた落ちした事だろう。
そして女子生徒の冗談発言の後、俺のは本当だったけどな、とでも言えば良かったのだ。そうすれば、笑いと言うか、なんとも言えないモノがそれぞれの心にある程度は残る筈だったろう。
主に草加は変態である、と言った余韻であろうが、そっちの方が返って面白い。
少し乗り遅れた感が否めないが、ここで一言を言うのと言わないのでは、何かが違うであろう。変人思考を駆使してどう草加を馬鹿にするか考える。その際、汚いものを見せない為に葉月の目に置いた手を離した。
あらゆる言動が浮かんでは、自分で否定する工程を繰り返し徐々に純度の高い、クレイジィな発言をこし出してゆく。それは、中学校の頃やった蒸留の実験に似ていた。
「あんた、やるな。あの一言で草加を変態に思わせるとは……でもな草加、俺はそんな変態だったとしても、ちゃんとつるんでやるからな!」
そうして得られた発言は、少しベタで、それでいてあまり精密なモノでは無かった。どうやら、最近京平クオリティが落ちて来ている様だ。妄想ばかりに時間を費やした反動であろうか?
しかし、さほど純度は高くなくとも大丈夫であろうと言う自信もある。何故なら、この草加三成と言う男、変人の感性を理解出来ない一般人だからだ。そういう奴は、一概にして律儀に突っ込みを入れてくれるのだ。
「お前が一番引いてたろ……図々しいわ!」
「当たり前だ。あんな事やってたら気持ち悪くて、近寄りたくない。建前と同情だって事に気がつけ」
「そうそう、人に対する深い慈悲と同情。それが日本人の美徳なの。解る? 三成?」
女子生徒と顔を合わせ、握りこぶしから親指を突き出す形、俗に言うサムズアップを互いに交わした。祝、変人同盟の結成の瞬間である。その間、草加は絶望にくれて、自らの昼食である定食と睨めっこをしていた。実に哀愁漂う光景である。
しかし、この同盟、非常にマヌケな欠陥がある事にすぐ様気が付いた。しかもその欠陥は非常にフェータルで、尚且つ、この同盟の根幹を揺るがすようなレベルである。
その上、今まで散々にからかってきた草加が、この欠陥が埋められるかどうかの命運を握っているのだ。どんな態度で草加にその事を聞けばいいのだろう。正直少し気まずい。
だが、ここでよそよそしく接してしまっては、何かおかしい気がする。そもそも、その欠陥自体、幾ら逆上させても修復可能なモノではないだろうか。だったら恭しく接する必要は無いだろう。
「なあ、草加。一つ聞きたいん事があるんだが……」
「三成、私も気になってんだけど」
女子生徒も口を開く。多分その口ぶりからして、俺とほぼ同じ疑問を持っている様だ。
「こいつ誰?」
「うん、私も気になる。ねえ、この人たち誰?」
互いに相手を指差し、草加に問う。
そう、この変人同盟の欠陥とは互いの名前と素性を知らない所だったのだ。そして、その二人を知ってるの草加のみ。だから欠陥を埋める事の出来る人間は草加だけだったのだ。
二人の発言を聞いて草加は頭を抱えた。それは、変人二人に振り回された、哀れな一般人の疲れた姿だった。