Remember 2章


   昼食も終え、俺は学食を後にした。
 女子生徒の名は串井司──クシイ ツカサ──と言い、剣道部に所属、草加とは幼馴染の関係らしい。  串井は俺の名前を聞いた後、どのような字を書くかを聞き、聞いたら聞いた後で『ヘンリーとカタリ君って呼ばれるのどっちがいい?』と、聞いてきたのだ。どちらもタカリクの言い方を少し変えただけであったが、両方とも面白い呼び名だった。
 ネタ的にはヘンリーの方が面白いのであるのだが、ここは敢えてカタリ君を選んだ方が変人的に感じるので、それを選んだ。と、言うより、形容し難い魅力を感じたのだった。
 各々の紹介が終わった後、昼食は串井主体によるレクレーション大会に変わり果ててしまった。いや、レクレーションでは語弊があるか。ただ単に串井が草加を集中的に苛めていただ。早く飯を食ったら勝ちとか言うゲームだったが、一人だけ複数のおかずが付いている草加にとっては明らかに不利なゲームだった。
 勿論、草加は反論、と言うより参加をしない意志を表したが、結局飯を食わない訳にも行かないので、否応無く参加する結果となってしまった。その間串井の様々の妨害、例を挙げるならば味噌汁に漬物を投入したり、ご飯に緑茶を投入して茶漬けにしようとしたりしていた。
 ただでさえ、量が多いのに、串井の悪戯にいちいち律儀にリアクションを取るものだから、圧倒的な差を見せて、めでたく草加は最下位となったのだった。そのまま串井のテンションは鰻登りし、ビリの責任だのなんだの言って、草加の口にそれぞれのテーブルに一つは備え付けられている七味唐辛子を大量に放り込もうとしたのだ。どの位大量かと言うと、新品らしく、ビン一杯に入っていたのが、半分になる位である。
 勿論、猛烈な勢いで拒否した草加だったが、もう一人の変人、この片陸京平のテンションが上がって加勢したのが、草加にとっての運のツキだった。嫌がって暴れる草加を押さえつけ、口をこじ開けたのは俺の役目だった。武田は囃し立て、俺と串井のテンションを上げるのを手伝い、葉月はただ慌てふためいているだけであった。
 そこからが大変だった。悶絶して床の上でブレイクダンス──の、様に見えた──を始める草加を、運悪く学食で食事を取っていた教師に見つかり、主犯と判断された串井は騒動の主犯と見られ連行。ただ、教師は何故草加がブレイクダンスをする理由は解らなかったらしく、ついでに草加も連行されていった。
 奇跡的に俺が草加を押さえつけて口をこじ開けるシーンは見られていないらしく、俺は連行される事は無かった。串井もいい奴で、被害を最小限に抑える為の発言をしていた。そういえば、先生が近づくタイミングで武田は脱走していた。何だかんだ言って気の抜けない奴だ。
 そんな事で取り残されたのは俺と葉月だけとなり、一騒動のあった学食を背に校舎に向かっているのである。
 


「……何だか、疲れました」
 


「そうか? ま、あそこまでテンション高くなると、見ているだけでも、疲れるかもな」
 


 色々と面白いもの、主に草加のブレイクダンスが見れて、俺は満足であった。顔を真っ赤にして、本当にブレイクダンスみたいにクルクル回りながら、悶絶する男を想像していただきたい。恐ろしくシュールである。
 さらに回転しながら、『ノォォォォォ! イッツ・ベリィィィィィィ・ホォォォォォォット!』と、何故か英語で叫びながらだ。それはもう、シュールを通り越してコントの域に達しているだろう。
 


「片陸君、酷いよ。嫌がっている草加君の口を無理矢理開けて……串井さんもあんなに七味入れるなんて酷いです」
 


「ん、一時のテンションに身を任せた結果がアレなんだ。今は反省してるよ」
 


 実際反省などしておらず、機会があればもう一回やってみたいと思っている。罪を認めながらも、反省をする気は無い。我ながら実に冷酷な男だと思う。
 その時はしっかりと串井と計画を練って、完全に陥れる事にしよう。どんなブレイクダンスが見られるだろうか。実に楽しみである。
 


「でも、草加君には悪いけど笑っちゃいました。疲れたけど楽しかったです」
 


「あのリアクションは予想外だったな。まさかブレイクダンスみたいになるとは思わなかった」
 


 その事を思い出してか、くすりと笑う葉月。つられて俺も唇の両端を吊り上げる。
 初めて見る様なその笑顔は、何処か彼女に儚い、と言うイメージを付加させている様だった。
 


「片陸君、誘ってくれてありがとうございます」
 


「……別に。こん位なら、構わないさ」
 


 照れ臭い言葉に、ほんの少しだけぶっきらぼうに答える。それでも、あまりぶっきらぼうに聞こえていなかったのか、あまり葉月の表情に変化は無かった。
 それで心なしかほっとする。自分からぶっきらぼうに答えといて、実に身勝手であるが、兎に角何故かほっとしたのだ。何故だろう、自分でもよく解らなかった。
 


「あの、また……一緒に誘って貰えますか?」
 


 何かを恐れているような表情で葉月が聞く。彼女が何を恐れているのかは解る。つまり、彼女はその問いが断われる事──それを恐れているのだ。
 しかしそれは杞憂だ。俺には葉月を拒否するような理由は持っていない。それどころか……俺は葉月に対し、正体不明の感情を抱いている。なんと言うか、放っては置けないような妙な感覚と言うか、保護欲に近いものである。
 だから、答えは決まっているのだ。
 


「ああ、明日でも明後日でも、毎日でもいいぞ」
 


 一挙に安心した表情を見せた葉月を見て、何故かこちらもほっとした。そして何処かで確信した。コイツ、葉月成美には何か人を動かす力を持っているのだ。
 これはコイツの天性の能力とも言え、少なくともそれが俺にはそう感じられた。
 しかし、同時に一つの疑問が浮かんだ。何故、そんな事が出来る何かを持っているのに、コイツはこんなにもオドオドしているのだろう。それに、さっきの問い。まるで、クラスの連中とは疎遠であるかの様な印象を受ける。
 


「ってかお前、クラスの奴と行かないのか?」
 


「私……あまり話をしないので、クラスに馴染みにくいんです。皆とは話をしてみたいんですが……」
 


「俺とかには平気で話てるじゃないか。ああ、でも敬語だもんな。こっちが畏まってしまう、って思う奴もいるか」
 


 馴染みにくい、それは少し控えめに表現されているのだろう。だとしたら去年のクラスでは、全くと言っても良い程に居なかったのだろう。
 だとしたら俺はどうなのだろう。一年生と同じ新入生の立場であり、顔見知りなぞ、いとこの睦月さんを除いてしまえば全くもって居なかったのである。しかし、今はどうだろうか。草加や武田、串井、そして葉月などと話を交わしているのだ。
 少なくとも人と話を交わす、この行為において重要なのは心がけ一つなのである。そして、それは誰にでも出来る事なのである。
 積極性に欠ける葉月の性格からすれば、その心がけは容易でない事は想像に難しくない。しかし、それを乗り越えれば少なくとも、今よりは少し楽しい学校生活が送れる事だろう。ならば、俺は……それを手伝ってやりたい。多分、葉月の持つ、放っておけない印象に引かれて。
 


「う〜ん……ま、頑張れよ。現にこうして俺と話してるんだから大丈夫だろ」
 


「大丈夫……なのでしょうか……」
 


「自分に自信を持てよ。俺や串井を見ろ。根拠の無い自信と、怪電波を発信、受信をし続けている。こうなるのは末期だが、せめてその気でいないとさ」
 


 別に葉月に変人になれ、と言っている訳ではない。しかし少し考えてみると、そうなってしまった葉月も面白いかもしれない。
 しばし、葉月が俺や、串井みたいになってしまった時の事を妄想してみる。
 


『さて、次はどう草加を陥れようか』
   


『カタリ君。わさびなんてどう? 三成、日本の心に打たれて、むせび泣くわよ。日本に生まれて良かった! てね』
 


『片陸君、串井さん。こんなのはどうでしょうか。化学室から盗って来たんだ』
 


 俺と串井は、葉月がその手に持つ物を覗き込む。持っていたのは、無機質な明朝体のフォントで、『CH3(CH2)2COOH』と、プリントされたシールの張ってある薬ビンだった。CH3(CH2)2COOH……つまり、酪酸である。中にはしっかりと、液体の酪酸が入っていた。
 酪酸とは強烈な刺激臭を持つ物質である。その臭いの強さは、良くて一週間、下手をすれば一ヶ月は取れない事もある。皮膚や粘膜に触れれば、軽い炎症を起こす。その為、流石に口に入れる事は躊躇われたが、草加の制服にさり気なく付着させれば面白そうである。
 近いにおいを挙げれば、汗臭さと、酢のにおいを足したにおいの酪酸。その威力は、想像を絶するモノがある。それが、一週間から一ヶ月に渡って草加に纏わり付くのである。その間、草加のあだ名はこうなる事であろう。『スメルマン』と。非常に愉快である。
 串井と葉月も同じ事を考えてしていたのか、していなかったのか。不敵に、そして爽やかに微笑んでいる。どうやら、満場一致で葉月の提案した、酪酸攻撃に決定した様だ。名付けて、アタックネーム『シーシェパード』だ。イジメに近い攻撃だが、草加なら許してくれる筈である。
 三人そろって不気味な笑い声を上げる。草加攻撃サミットの会場は、迷惑にも階段の踊り場である。その為、他の生徒達からの奇異の視線が、遠慮なく三人に突き刺さったが、それを気にする俺らでは無かった。
 


 非常に愉快な……もとい、非常に恐ろしい事である。葉月が変人化してしまったら、俺や串井を超える変人になってしまいそうだ。積極的やって行きたい感情を抑えて生きているであろう葉月が、一挙にそれを爆発させるのである。相当に、恐ろしい行動を起こしてくれるだろう。もしかしたら、あのエガちゃんを超えるかもしれない。
 そうなってしまった葉月を見てみたいが、同時に、余りにギャップが激しすぎて、見たくも無い気がした。何しろ葉月の容姿である。攻撃的な印象を外見で判断の出来る串井とは違い、葉月はごく普通の、控えめの女の子なのだ。
 そんな子が、アタックネーム『シーシェパード』を、具申した時の事を考えていただきたい。耐性のある人間を除いてしまえば、かなりの確立で引いてしまうだろう。そう、葉月さんって腹黒だったんだ……と。
 結果クラスから、さらに疎遠になってしまう葉月。……よくよく考えてみれば、それは駄目な事ではないだろうか。余計葉月を変な所に追いやってしまうのではないだろうか。
 第一俺は、葉月を他人としっかりとコミュニケーションを取れる事を望んでいる筈だ。
 


「わかりました……片陸君みたいにはなれませんけど……頑張って行きたいと思います」
 


「ん、頑張れ。葉月、お前さ、顔も悪くないし、性格も良い方だと思うぞ。だから拒絶はされないだろ」
 


 よくよく考えてみれば、何だか口説いている様な台詞である。葉月を前に進めるための激励の為に言った言葉ある為、決してそんなやましい感情は無い筈である。しかし、言われた人間が別の捉え方をしてしまえば、本意は意味を成さないのである。理解とは誤解の総体である、と言う事はこう言う事なのだろう。
 葉月は何やら赤くなって俯いている。まずい、口説いていると捉えられたか。何かを小言で呟いているが、残念ながら聞こえない。
 しばらく無言で歩みを進める二人。何故か非常に気まずい。もう一度、葉月に視線を向けると、俯いたまま歩いている。先程と違う所と言えば、顔の赤らみが抜け、若干辛そうな顔をしている所だろうか。
 ……多分、想像しているのだろう。自分が積極的に他人に話しかけている事を。そして、その結果は彼女の望む結果に終わったのだろうか? それは表情を見れば明らかである。つまり、どう考えてもネガティブな結果に終わったのだろう。
 


「……もしさ、上手くいかなくても、俺や草加、武田に串井とは少なくとも知り合いだろ? だから、大丈夫だ……って何が大丈夫なんだろうな」
 


 気まずい雰囲気を吹き飛ばす為、そして恐らくはネガティブな想像に駆られる葉月を励ます為に、そう言った。一応、少しだけ軽い台詞に聞こえるように、自分自身に突っ込みを入れてみた。少し、自分が悲しくなった感じがするが……
 俯いていた顔を上げ、自信無さげな表情をこちらに向けてきた葉月。少しだけ、何かを躊躇った様に目を伏せ、次に目を上げた時には笑っていた。
 つられて俺も口元を緩めた。無言に戻って、二人歩くが、そこには先程まで感じていた気まずさは無かった。
 やがて、普通科の校舎と療養科の校舎へと分かれるに辿り着いた。二人とも一度、歩みを止める。じゃ、と軽く手を上げ、普通科の校舎に足を進めた。
 


「あの……また明日」
 


 その葉月の言葉を背中で受け止め、後ろから見ても解る様なサムズアップで答えた。それが、肯定の返事だった。
 


 ***
 


 教室に入ると、既に、いつの間にか逃げ出していた武田が居た。
 なにやら女子クラスメイトと話しており、その手には携帯を持っている。どうやら、アドレスの交換らしい。どうでもいいが、ある意味、コイツが一番の大物ではないだろうか。世渡りの得意そうな奴である。
 武田は俺の存在に気が付き、女子クラスメイトから離れ、教室の扉に突っ立ている、俺の元に来た。その際、歩きながら携帯電話はポケットに仕舞っていた。
 


「大丈夫だった?」
 


 開口一番に、如何にも苦労をしなかった、いわゆる第三者の言いそうな台詞が飛び出してきた。俺と串井をその気にさせたのは、他でもない、この武田な筈なのにだ。
 何時逃げ出したのかが、非常に気になる所ではあるが、この際それは、口を噤んでおこう。
 取り敢えずここに居ない、草加の行方を教えるべきであろう。ついでに、一緒に連行された串井の事も話しておこう。
 


「連行されたのは草加と串井だけだ。俺はこの通り無事だ」
 


 両手を広げて、無傷を強調するかのような口ぶりで言う。一応、武田の罪悪感を呼び起こす為の演技なのだが、多分、無意味だろう。第一、そんな小さな事で罪悪感を感じるのならば、逃げる筈が無いだろう。
 事実、武田はその柔和な笑顔を浮かべながら、それは災難だったね、と軽く受け流している。罪悪感を誘うのを止め、雑談をする事にした。
 雑談と言っても、さっきの女子クラスメイトとのアドレス交換についてだとか、部活に入っているのか、そんな実に他愛の無く、そして取り留めの無い事である。返答を詳しく挙げれば、あちら側からアドレスを聞いた来た、部活は入っていないと事だ。
 教室の扉に突っ立ていた状態から、その近くにある掃除用具入れに背を預ける。質問したお返しと言わんばかりに、武田も俺に色々な事を聞いてきた。とは言え、何処から引っ越してきたのか、同じく部活に入る予定はあるかだとか、俺が聞いた事と同様に、取り留めない事だった。
 前は東京に住んでいた事と、部活は入る予定は無い事を伝えた。そうすると、学校名も教えてくれとせがまれた。何故そんなものを知りたいのか、正直理解に苦しんだが、別にそんな事教えた所で、俺にとって何も不都合があるわけでもないので、教えておいた。
 武田はそれを聞いて、先程ポケットに突っ込んだ携帯を再び取り出し、弄り始めた。まさか今聞いた学校名を調べるなどと言う、行動に出るのだろうか。
 そんな事を内心で危惧していた矢先、草加が職員室から帰ってきた。ブレイクダンスをした後の所為か、それとも、絞り上げられたのか、兎に角何処かぐったりとした様子だった。
 


「うう……口の中がヒリヒリする……」
 


「良かったな火が噴けるぞ。ほら、ブレザーを頭に被って火を噴けば、憧れのジャミラだ。やったな!」
 


「お前、ジャミラにこだわるよな! それにお前ら、大変だったんだぞ! 司は適当な事言って逃げるし、俺は何でブレイクダンスしてたんだって聞かれるし……」
 


 見ろ、俺の労いの言葉によって、草加は見事に復活を遂げた。誰か俺を褒めてくれ、奉ってくれ、懸賞をくれ。どうでもいいが、教師か見ても、あの悶え方はブレイクダンスに見えたらしい。
 更に草加を元気にする為に、優しい言葉を考える。いや、寧ろ、少しテンションを上げ過ぎてしまった気がする。
 そう、ここは少し上がり過ぎた草加のテンションを下げる事が重要だろう。だとすれば、草加を窘める様な言葉がいいだろう。
 


「お前言ってたじゃないか。ブレイクダンス王に俺はなる! ってさ。お前のダンスの才能は解ったから、もう少し場をわきまえてくれ」
 


「司とお前が自重すれば良かったんだろ! くそぅ……司がもう一人増えたみたいだ……武田、何で止めなかったんだ……?」
 


 配慮が裏目に出て、余計激昂させてしまった草加。どうやら、串井と俺の躁状態による悪戯が気に食わなかったらしい。その上、串井に関しては色々と前科があるらしい。つまり、今日が初めてという事では無いらしい。それを裏付ける、串井がもう一人増えた発言。実に愉快だ。
 激昂した後に、落胆したりと中々忙しい草加は、今度は武田に怒りの矛先を向けた。と、言っても、くどい様だが、既に草加は落胆している為、余り勢いは無い。
 


「面白そうだったから、つい。実際、面白かった。止めなくて良かったよ」
 


 携帯に視線を落としつつ、相も変わらず柔和な笑顔で答える武田。顔の悪い男子だったら、携帯を覗いてニヤニヤしている場面は、非常に気色が悪い。しかし、ベビーフェイスである、武田がやってもそう気味は悪くなかった。
 と、柔和な笑みで騙されてしまったが、今の発言の仕方は軽く酷い事では無いのだろうか。草加の訴えを受け流している事なのだから。その事に奴は気が付くのだろうか。
 よく考えてみると、面白そうだから止めなかった、と言う事は、意外と武田も面白主義なのだろう。
 


「……なんで俺の周りには、変なのばかり集まるんだ……」
 


 唯一マトモだと信じていた武田が、実は面白主義者であった事実に、更に落胆する草加。立ちながら目頭を押さえ、なんて事だと溜息と共に、寂寥漂う一言を吐いた。
 その姿は余りにも哀れで、同情するに取るに足りるものだった。
 


「類は友を呼ぶんだよ。ほら、その悲しみをブレイクダンスに昇華させろ。それかジャミラになって、女子トイレに特攻するかだ」
 


 そんな草加を励ます素晴らしい一言。人間には適応規制と言うものがある。それは、何かしらの困難に直面した時に、その局面を切り抜ける為の、複数ある行動パターンの総称である。
 その内の一つに昇華、と呼ばれるものがある。それは、その局面をスポーツや何かをして、自己を高める事である。今俺が言った事は、正にその昇華に当てはまるのだ。我ながら、優しすぎて涙が出そうな程だ。
 ブレイクダンスかジャミラをする事によって、今の草加にとって耐え難い局面を切り抜けるべきだろう。
 


「変態だろ! いい加減にジャミラから離れろ!」
 


 そんな、優しい提案を見事に無碍にする草加。何故だろうと、暫く考える。あんな人が密集していた学食で、見事なブレイクダンスを披露したのだから、今更恥ずかしい、と言う訳ではないだろう。
 そこまで考えて、ふと思い立つ。人数が多すぎて、どうせ顔見知りなぞ居ないだろうと、タカを括ってブレイクダンスを敢行したのだ。しかし今は違う。少なくとも、クラスメイトと言う、顔見知りが集まる空間に居るのだ。知っている顔が居ると、変態行動が取れない。たまにそういう変人もどきがいるものだ。もし草加がそうだとしたら……今のこの状況は、先程以上に辛いものだろう。
 だとすれば、俺のする事は一つだ。草加を少しでも入り易くするような、そんなシュチュエーションを作るのだ。
 


「しょうがないな、俺がダンスを先にするから、タイミング見計らってブレイクダンスしろよ。それか下半身を脱ぎ去って、ジャミラになるかだ」
 


 草加の返答を待たず、足早に教壇に立つ。前の学校は勿論の事、中学の時でも、ダンス部に所属した経験の無い俺にとって、暴挙とも取れる行動だった。しかし、草加のブレイクダンスを皆に見せる為だと思うと、何とかなりそうな気がしてきた。
 ダンスとは疎遠だが、去年無理矢理体育祭でやらされたダンスがある。俺の最大のダンスであり、また唯一のレパートリーだ。
 久々に踊った為、所々間違えた。いや、ただ単に忘れているだけだろう。変な動きになりつつも、必死に教壇で踊った。草加はまだ来ない。
 


「お、なんか面白いのやってんな! 喜べぃ! 援軍だ!」
 


 草加ではない一人の男子クラスメイトが教壇に上がり、踊り始めた。横目で見ても非常に上手い事が解る。昨日の自己紹介を思い出す。名前は確か清水──シミズ──、ダンス部だったか。
 この加勢は中々心強い。俺の稚拙なダンスに比べ、清水のいわば本職のダンスの方が、より人の心を打つからだ。
 稚拙な俺のダンスと、見事な清水のダンスは続く。何やら、後ろのスピーカーからチャイムの様な音が聞こえてきたが、多分の気のせいだろう。その証拠に、未だ清水は踊り続けている。
 負けじにと俺も、下手な踊りのスピードを上げ、心の中に流した音楽に動きを合わす。因みに選曲はPENICILLINのロマンスだ。深夜にやっていたマサルさんが懐かしい。
 いつの間にか、俺と清水を除くクラスメイトが着席していた。皆、一様に黒板前の俺らを眺めている。大半が呆れの視線であるが、そんな事は関係無かった。正直、もう草加なんてどうでも良かった。何故かは知らないが、ここで止めてしまったら負けな気がした。
 そろそろ、脳内BGMをロマンスから日本ブレイク工業へと換装しようかとした時だ。視界の端で捉えていた、清水の動きがピタリと止まったのだ。
 どうしたのだ、と踊りながらも顔を隣で動きを止めたままの清水へと向ける。呆然とした感じで、清水は俺とは反対側……教室の戸側に顔を向けていた。それはもう、顔を見れないのに呆然としているのが解る程だ。
 不思議に思い、視線を清水がじっと見詰める先にへと移動させる。何故、ノリノリで踊っていた清水を停止させたのか、その原因を知りたかった。
 移動させたその先、教室の戸だ。そこに仁王立ちする、白衣を着た中年の女教師が居た。明らかにご立腹の様子で、その上、俺ら二人を舐るように睨み付けている。廊下側の壁のラシャに貼り付けられている、時間割を視界に入れる。その時間割によると、今日の五時間目は生物で、担当教師は大崎──オオサキ──と言うだそうだ。
 まず、間違いなく仁王立ちで睨んでいらっしゃる教師が大崎だろう。
 硬直する俺と清水に、大崎は二人の名前を聞いてきた。両者、正直に答え、愛想笑いを浮かべて席に着いた。
 大崎は溜息を着きながら教壇に立ち、早速名簿を開いて俺と清水の名前を呼ぶ。名前の後に続いた言葉は、授業終わったら廊下に出ろとの事だった。
 


 ***
 


 何とか今日の授業を終わらせた。五時間目終了後の大崎の小言を何とか聞き流し、職員室に連行だけは免れた。
 既に終業のチャイムが鳴り終わって、その上ホームルームを終えているのだから、それぞれの放課後を過ごす為に、皆昇降口へと向かっていた。一部例外は体育館で行なう部活と、文化部だろう。
 因みに俺はその例外にあらず、しっかりと昇降口に向かっていた。流れで草加と武田と合流しながら、だ。
 まだ真新しいリノリウムの床が、傾き始めた午後の日差ざしを受け、鈍い光沢を放っている。眩しくは無いが、何処か目を刺す様な微妙な光を受けながら、昇降口へと出る。
 早めにホームルームが終わったお陰か、昨日に比べ黒の背中が昇降口を支配する割合は小さかった。時々、下駄箱を閉める音、敷いてあるすのこが、床にぶつかって立てる音が聞こえる。
 


「片陸よぉ。お前、柳内先輩のアドレス知らないのか?」
 


 すのこに乗り、自分の下駄箱前を開けようとした時に草加が、聞いてきた。そういや、コイツ睦月さんに惚れているのだったか。
 アドレス、と言っているのだから、メールアドレスだろう。ルー大柴みたいに、住所を求められていたら、まず引く。
 


「ん? 知らんな。家の電話なら知っているけどな」
 


 床に放ったローファーを突っかけながら、事実を告げてやる。親戚のアドレスは知っている事は知っているが、睦月さんのは本当に知らなかった。と、言うより、殆ど電話で済ましてしまっていたので、聞かなくて困った事は無かった。
 少し落胆したのか、草加は溜息を吐いた。思うのだが、結構コイツはヘタレなのではないだろうか? ヘタレならヘタレで、また愉快な遊び方があって面白いのだが、俺は一応コイツの相談相手なのだ。結構ヘタレだが、面倒だ。
 こっちも、面白半分で厄介な事を引き受けてしまった事に、溜息を着きたい。憂鬱に成りかけて、昇降口に目を移すと、そこには幸運な光景があった。
 ヘタレの草加君をどうやら、神様は見捨ていなかったらしい。と、言うよりこれは奇跡だろう。漫画の様なマンネリをこれほど感謝した事は無い。そう、なんと、草加の愛しの睦月さんが居たのだ。
 肘で突付いて、草加に睦月さんの存在を知らしめる。あん? と多少ボケた声を出しながら、俺の視線の先にある光景を眺めた。直後、硬直。そうだ、そうして剥目してろ。
 


「ふ〜ん。あれが柳内先輩? 何だか大和撫子って感じだね。普通に美人だ」
 


「そして、どうみても、ジャミラの草加君にはオーバースペックだ」
 


 硬直したままの草加の状態をいい事に、さらりと酷い事を言ってみる。武田も酷い事にその言葉に頷いた。草加はまだ硬直したままだ。
 因みに睦月さんはクラスメイトらしき女子生徒と談笑している。本来、昇降口で談笑されると目障りで仕方が無いのだが、睦月さんが放つ雰囲気に触れてしまえば、許してしまえそうである。
 くどい事に、草加はまだ硬直している。そろそろ、意識をこの世に引き戻さなければ、談笑を終えて睦月さんが下校してしまいそうである。そういえば、睦月さんは部活動に所属していただろうか? 聞いた様な気がするし、聞いていない気がする。
 意識が飛んでいる草加を小突いて、意識を引き戻す。はっとした様子で奴の意識が戻り、刹那、何故か辺りを警戒するリスの様にうろたえる。つまり、辺りをキョロキョロ見渡しているのだ。……面白いくらいに恋愛初心者な事が見て伺える。
 ここは一つ、菩薩の様な心を持っている俺が睦月さんに話しかけてやろう。それが、今日一日、そしてこれからも変人供にハゲタカの様にたかられる草加の報いと、その駄賃代わりだ。
 挙動不審の草加の肩を意味も無く、一度叩き、談笑をする睦月さんへと向かう。多少、空気を読まない様な気がするが、ここは草加の恐らくの、初恋が懸かっているのだ。話し相手の人には心からの謝罪を申し上げたい。
 が、それは杞憂だったらしい。俺が近づいている最中に話し相手は昇降口の外へと消えたのだ。
 


「よ、睦月さん」
 


 無難に声を掛け、肩を叩く。こんにちわと、律儀にも挨拶をする睦月さんに、多少たじろぐ。今時、こんな風に挨拶──教師に対した場合を除く──をする高校生は居ないだろう。
 彼女らしいと言えば、確かに彼女らしい事で、それが睦月さんの個性にも繋がっているのも確かだ。あながち、武田が言った大和撫子の表現も間違ってはいまい。
 適当に雑談に繋げ、草加と武田が入りやすい環境を作り上げようと努力をする。気になっていた事を、適当に言えばこの人との対話は成り立つ。と言うより、それは万人共通な気がしないでもないが、兎に角、睦月さんとは話しやすいのだ。気になっていたと事は、部活に入っているか否か。因みに、返答は、なぎなた部との事だ。
 つい、何故かそのまま雑談をし続けてしまいそうになるが、一応は草加の為だ。寧ろ、恋愛初心者の草加に十分にキョドッて貰えば、見ているこちらが愉快だ。昔からよく言う、他人の不幸は蜜の味……その言葉が大好きな俺であった。
 一度、草加ではなく、武田に目配せをした。どうせ、草加のあの惨状だ。目配せをした所で、俺が目配せに込めた意味──こっちに来い──を読み取れる筈が無いだろう。ならば、他人事で冷静な武田に目配せをした方が無難だろう。
 事実、俺の思惑通り、武田正樹はしっかりと、目配せに込められた意味を理解してくれた。武田は未だに小動物よろしくに、辺りを見渡していた草加の肩を叩いた。そうして何かを呟き……多分、我流読唇術によると「いくよ」っと言ったのだろう。
 そう促された草加は、いくらか落ち着きを取り戻した。多分、近づき、そして話すという事に覚悟を決めたからであろうか。ただ、落ち着いたと言っても、あくまで、先程の小動物状態からの比較論である。顔は真っ直ぐになったものの、未だに目は泳いで、視点をハッキリさせていない。
 二人がこちらに向かって歩き始める。なんとも愉快な事……もとい、無様な事に草加はなんと、緊張の余り、右手と右足が一緒に出てしまっていた。今時、どんなアガリ症の人間だろうと、そんな症状の出る人間は少ないだろう。いや、寧ろ、漫画でしか見た事が無く、現実に見たのは初めてであった。
 笑いを堪えている顔がおかしかったのか、睦月さんがどうしたのですか、と問うて来た。何とか、笑いを飲み干し、何でもないとの旨を伝えた。
 そんな折、丁度武田と、草加が到着した。到着、とは言うが、二年五組の下駄箱からの距離なので、大した事は無い。
 


「片陸、連れて来たよ」
 


 自分の任務は終わった、さっさと面白いものを見せろ、と言わんばかりに、報告する武田。連行された草加の表情は緊張の為か、面白いくらい堅い。
 睦月さんとは言うと、俺が他人と親しげ──と、言えるのだろうか──に話している事に興味を示した。そんな所に、反応するとは、何処までも律儀な人である。ある程度は、予測していた事であったが。某死神帳面漫画の主人公の言葉を借りるなら、一応「計画通り!」だ。
 


「京平君、友達ですか? 打ち解けるのが早いですね」
 


「まあ、底抜けてプラス思考なのと、他人を飲み込むのは得意ですからね。ほれ、自己紹介」
 


 ガッチガチの草加を抜かして、最初に武田を促す。無難な挨拶をして、微笑みを浮かべる武田。対する睦月さんも笑みを浮かべ、傍から見れば、仲の良い姉弟の様だった。何故かは知らない。しかし、そう思わずにはいられない光景だ。
 さて、本題の草加の出番である。武田が先にしたお陰で、少しは紹介しやすくなっただろう、そう思った。しかし、どうだろうか。草加はまたもや、硬直してしまっている。
 一応は、恋愛初心者の草加が話しやすい環境を作ったつもりだ。もしかしたら、状況作りが下手なのかもしれない。しかし、そうだとしても、もう一人が紹介した後に、紹介できないと言うのは、酷すぎるではないだろうか?
 その酷さに、思わず目を手で塞ぐ。漫画家がだったら、俺の頭の上のふきだしは「あちゃ〜」っと、書かれているだろう。
 手を外し、不思議そうに草加を覗く睦月さんを尻目に、もう一度武田と目を合わせる。武田も、草加の酷さに落胆していた様で、お手上げと言わんばかりに、肩を竦めていた。
 目での会話を交わし、次にどうするかを相談した。どうしようコイツ、どうしようもないね、強行手段に出るか、それしかないね……会話の内容は、この様な感じであった。
 強行手段を、実行に移すべく、同じく目で武田に、睦月さんの注意を向ける様に指示を出す。この手段は睦月さんの目に留まれば、恐らくお咎めを食らう事であろうからだ。
 指示通り、睦月さんと少しの雑談を交わし始める武田を確認し、俺は一つの行動に出る。睦月さんに気付かれないように、慎重に、かつ素早く、さながら忍者の如く、草加の後ろに回り込む。睦月さんの反応を伺えば、どうやら、バレてはいない様だ。並行させて、胸ポケットに放り込んである、生徒手帳を取り出し、挟まっているペンを抜いた。
 バレていない事をいい事に、行動を本題へと移す。まず、俺の膝を草加の膝の裏、つまり、関節に宛がい、そのまま膝を曲げる。俗に言う、足カックンと呼ばれるものだ。その動作とほぼ同時に、抜き出したペンを故意に落とし、それを拾うべく腰を屈める。なるべく早く、なるべく自然な風に、なるべく膝を曲げて、そして、なるべく腰を丸く屈めて。そうして、バランスの崩した草加が、俺の丸めた腰に乗る。その時、草加の重心はやや後ろにあった。確認して、瞬間、柔道の背負い投げの要領で、曲げた膝を、心持ち少し伸ばした。
 重心が後ろに移動していた草加は、膝の伸びる運動により、背中から、昇降口の床へと落ちた。落下の瞬間、草加はうおっ、と、情けない声を発した。
 


「悪い、草加。お前がヒップドロップを唐突にやるから、つい、柔道の背負いもどきで投げてしまった。許せ」
 


 つい、の部分をワザとらしく強調する。これは一種の保険だ。もし、草加が一連の原因が、俺だと気付いていれば、何かしらの突っ込みが来るだろう。もし、気が着いていなければ、突っ込みは突っ込みでも、ヒップドロップとはなんだよ、との趣旨の突っ込みが戻る事だろう。さあ、草加は気が着いていただろうか。
 


「つつ……ヒップドロップって何だよ! いきなり足の力が萎えて、後ろに倒れかかっただけだ! ってか、何でお前はあそこで屈んでいたんだ?」
 


 どうやら、気が着いていなかったらしい。作戦は成功したようだ。草加が疑問に思っている事を、拾ったペンをかざして、答えを出してやる。因みに、俺はかの様な状況に想定して、ボールペンのストッパーのホールド力を、弱くする様な細工をしている。実際、落ちる事は無いのだが、本当にギリギリかと思える程、ホールド力が無いので、皆、その事実に頷いてしまうのだ。そのホールド力の手ごたえの無さを、アピールするべく、ストッパーを開いたり閉じたりを繰り返した。明らかにホールド力の欠片も無い。それを見て、どうやら草加は納得したようだ。
 草加が倒れた事によって、引き付け役を頼んだ武田から草加へと、睦月さんの注意が移る。大丈夫ですか、と、草加を気遣い、睦月さんは手を差し伸べた。その手を、顔を真っ赤にしながら、草加は握った。そのザマはまるで、恋愛に初々しい以前に、恋愛と言う感情に目覚めたばかりの、中学生を連想させた。
 近距離で並んで二人立つと、意外と身長差がある。草加は、俺より身長が高いのは既に解っていたが、女子生徒と並べると、改めて高い事が認められた。俺の身長が百七十三センチ、平均身長より三センチ程高い。草加はそれ以上デカイのだから、最低でも百七十四センチ。いや、一センチの差は存外、解らないもの。俺がデカイと感じているのだから少なくともニ、三センチの差はあるのだろう。訂正された、草加の予測最低身長は、百七十六センチとなった。
 


「足の力が萎えたって、大丈夫ですか?」
 


「え、ええ。大丈夫ですよ! 俺、たまにそんな事あるんすよ! 病気ですかね?! ハハハ」
 


 嘘をつくな、足が萎えたように感じたのは、俺が足カックンしたからだ。それに、良く足が萎えるなら、それはそれでマズいだろう。脳か神経系、それか筋肉の問題になって、笑い飛ばせるレベルではないだろうに。
 が、一応は俺の菩薩の様な考慮が、功をなしたらしい。ある程度、うろたえながらも、睦月さんと会話を交わしている。まずは、恋愛の基礎中の基礎……っと言うより、対人関係としての基礎を、今、草加は築き上げた。
 うろたえながらも、必死に睦月さんと会話をしようとする、その光景は何処か微笑ましいものだった。……こういう微笑ましい状況を目の前で展開されると、それを見事にギャクかネタにして、壊したくなる衝動に駆られる。この時も例外ではなく、今すぐにもぶち壊してやりたかった。ここに串井が居なくて、つくづくラッキーだろう。もし串井が居たのであれば、変人──ネタ、面白主義者──二人による相乗効果で、この場を、一世一代のギャグに変えてしまいそうであった。
 


「私、そろそろ部活に行きますね。それでは」
 


 その台詞を残してその場を去ろうとする睦月さん。さて、ここからが愉快になるところだろう。
 このまま、睦月さんを見守って、この場に立ち尽くすか、それとも何かしらのアクションをとるか。ヘタレを発揮し、何もせずに立ち尽くす草加をなじるのも楽しいし、アクションを取って、その様子を観察するのも十分に愉快なことだろう。
 ちらりと武田を見る。どうやら武田も、次に草加が取るアクションに興味があるようだ。微笑の形にした唇には、サディスティックな韻が含まれていた。つまり、何もせずに俺がなじるの見るのを楽しみ、行動を起こしてその不細工な必死さを見て楽しみたいのだ、コイツは。かく言う俺も、同じ見解であるが。
 さて、その草加はどう出るか。睦月さんのその言葉に、一瞬停止した草加。再び活動を開始した頃には、睦月さんは昇降口を潜ろうとした時だった。
 


「や……柳内先輩、あの……アドレス教えてくれませんか?」
 


 言った。ヘタレの草加が積極的に、自ら進み出てそんな事を申し上げた。余りに必死に過ぎて、返って笑いを誘ってしまう光景だ。あくまで、傍観者からの視点からではあるが。
 そんな草加の勇気を気付いてか、気が付いていないのか。恐らく、後者であろうが、女神の笑みとも形容できるそれで、草加に応対する。
 睦月さんの性格なら、恐らく、無下に断る……と言う自体は無いだろう。ほんの少しの安心感と、笑いが提供されなくなる、膨大な不満を抱きつつ、どうせ成功に終わるであろう申し出を見守る。
 


「すいません。私携帯電話持っていないんで」
 


 衝撃の事実。流石にこの展開は予想外だった。正直、予想の斜め上ってレベルじゃねーぞ! ここで各人の反応を見る。呆然として立つ尽くすのは草加。あんぐりと口を開けて、マジかよ、と言いたげな顔をするのは武田。そして、俺は、再び目の辺りに手を当てて、長さんの名台詞を内心で呟いた。だめだこりゃっと。
 武田と俺は早く復旧し、遠ざかる睦月さんを眺める。まさか、高校生にもなって携帯電話を持っていない……それも三年生が居るとは思わなかった。
 未だに硬直を続ける草加に、歩み寄り、静かに手を肩に置く。武田も同様に肩に手を置き、二人揃って、笑う所の展開ではなかった結末に、少しばかりの同情を草加に向けた。
 


「……道は困難だが、頑張れ。商店街で何か食って帰ろうか」
 


 慰めと、労いの言葉をかけ、半ば引きずる様にして、昇降口を潜った。
 その後、規模は相当小さいが、一応駅前にあるマクドナルドで男三人寂しく、カウンター席で小さな、そして惨めな宴会を開いた。
 草加が、カタログ以上の度胸を出した事が原因による暴走は、見ていて何処か寂寥の感を感じさせる物があった。もっとも、それ以上の笑いは提供されたが。
 そんな草加が自棄になって、メガマック10個を僅か二分で、完食すると言う暴挙とも取れる快記録を打ち立てた。
 その後、帰りの駅で、草加が猛烈な胸焼けから来る、栄光の架け橋を口から吐き出したのは、別の意味である種の伝説を打ち立てたのだった……
 



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