Remember 1章



   行き成りだが俺は電車が嫌いだ。
 何しろこの俺、片陸 京平──カタリク キョウヘイ──は電車酔いする言わば希少な人間だからだ。
 そんな俺が今脂汗を汗腺から滲ませつつ電車に揺られている。正直もう降りたい。
 付け加えておけばこの電車はローカル線で二、三駅位進むと時間合わせのためか五分はその駅に止まる。さらにドアがボタン式と来た。此処まで来るとこの地がどんなに田舎が伺える。
 車掌の妙な鼻声が俺の降りるべき駅名を告げる。電車から開放される事を素直で喜び、網棚に載せた旅行バックに手をかけた。衣類が入っているのでやはり重い。
 電車の速度が遅くなってきた頃合で座っていた席から立ち、ドアへと足を運ぶ。脇に備えられたそれぞれ開と閉と書かれたボタンを眺める。
 このボタンはドアの外にもあり、この開ボタンを押さない限りドアが開くことは無い。この電車に乗る時、待ってもドアが開かずかなり慌てた。
 もっともすぐにドアの横にあるのに気が付き、事なき事を得たのだが……いやはや恐ろしい。
 もう一度鼻声のアナウンスが流れ、駅のホームが見え始める。前の方の車両だったので減速してもホームを暫く走った後停車。
 すかさず開ボタンを押し、空気が漏れるような駆動音を立てながら電車のドアが開き、俺は新たにやって来たこの地へと第一歩を踏み出した。
 俺にとって新しい駅、新しい土地、新しい人々。そんな全てが新しいこの場所で、俺の新しい生活が始まる。
 


 ***
 


  電車によって与えられた乗り物酔い特有の不快感を癒すべくホームに備え付けられたベンチに腰を下ろす。
 自販機もあり、よくドラマとかで見かけるような超ド田舎の駅ではなく、例えるなら快速で飛ばされる小さい駅といったところ。
 高架駅で今座っているベンチから立てば町並みが確認できる。
 話に聞けばこのローカル線唯一の高架駅らしいこの駅、白峰駅──シロミネ──のダイヤをインターネットで検索したところなんと一時間に平均四本しか無い。少ないと一時間で二本と驚愕的記録を持っている。恐るべしローカル線と思ったのはコレが初めてだろうな。
 そんな所に俺が来た理由は極めて単純。両親の仕事が海外へと移ったと言う、まるでアニメか漫画の設定だが自らの身に降りかかってしまったのだ。
 それで親戚の家があるこの地に来た……ってのはセットでお約束な設定だ。じゃなければ誰が好き好んでこんな土地に来るかってんだ。
 住めば都と言う言葉が本当だと言う事を実に切に願う。
 酔いも収まり、駅前に親戚の人を待たせているので少し急ぎ足で階段を降り財布に入れてあったスイカで改札機を通過した。
 白峰駅を背にして、親戚の顔を捜した。
 ……それにしても、駅にしちゃ人が少ない。前に住んでいた街はまだ人が多かったし、駅ビルもあった。ローカル線と普通の電車ってのは此処まで差が出てくる物なのか?
 などと得意の悪態を内心で呟きつつ、親戚を探す。編入試験を受けた時に会ったから久しぶりでは無かったし、顔を覚える事も出来たから比較的容易だろう。
 いくら記憶力が人一倍乏しい俺でも顔を覚えられる。小さい頃にも泊まりに行ったことあったしな。
 そういう意味では新しい土地……ってのは間違いだったかもしれない。
 ま、忘れてしまえばそんなもの関係ないがな。無論俺は忘れてしまっている。どうだ凄いだろう。ここら辺が京平クオリティだ。
 駅の入り口付近には居ない事を確認して高架の下に設けられているバス停周囲に足を運ぶ。バスは電車に比べ幾分まともの様で、ちょくちょくバスが止まるらしい。遠めでも電車のダイヤ以上に数字で埋まっていた。
 悠長にそんな事を考えながら探していると小さい駅の事すぐさま駅を一周してしまった。
 ……居ない。何処にも居ない。
 ホームのベンチで酔いを醒ましたのが駄目だったか……いや、あの人の事数分遅れただけで行くって事は無いだろう。しかし……しかしである。一時間に四本しか出ていないこのローカル線だ。俺が乗り遅れて二十分後の電車に乗って来るって考えてもおかしくない。
 うむ……状況から見て二十分後説が濃厚だろう。二十分後説だと仮定して如何にして残り二十分を潰すか。幸い駅の近くにコンビニはある。立ち読みでもして時間を潰すか……
 そうと決まれば膳は急げだ。さっさとこの駅から立ち去るとするか。
 俺は今の立っている向きから見れば背中にあるコンビニ目指し体を百八十度回転させる。
 そして目の前に女性の顔。って顔……!?


「うおっ!」


 不意の出来事で情けない声を上げて尻餅を付いてしまった。
 来て早速この人通りの少ない駅に感謝した。人通りが多ければ奇異の視線が俺に突き刺さるのは当然な事。
 てか今の何だ?
 見慣れたようで見たこと無いような顔だった気がする。
 それまで地面に落としていた視線を上げ、俺を驚かした顔を確認する。
 ……なんでだろう。此処までお約束が続くと嫌になる。


「人を捜している人間を脅かすのが最近の流行ですか?」


 一つ軽口を叩き、この世界はマンネリとお約束で満ちている事を密かに呪った。
 つまり俺を驚かし、情けない声を上げさせられた上に、尻餅を付く羽目になった原因を付くったこの女性こそ捜していた親戚なのだ。


「いいえ。私のマイブームですよ」


 笑顔を浮かべ腰をかがめて俺の顔を覗き込む黒のブレザー姿のこの女性、俺の……なんだっけ?兎に角、血の繋がりは良く解らんが親戚だ。名前は柳内 睦月──ヤナイ ムツキ──さん。年は俺の一つ上だ。
 髪の毛が長く、雰囲気的にはお姉さんっと行ったところだろう。
 それにしても……やっぱり喪服みたいな制服だな。女子ならまだ赤色のリボンがあるからまだマシだが、男子の制服に関しては上下黒のブレザーと黒のネクタイと来ており、辛うじて胸ポケットに縫い付けてある校章でそれが学生服だと認識できる代物だ。
 何で俺が知ってるかと聞かれれば話は簡単。俺も睦月さんの通っている学校に通学する事になるのだ。
 実に驚いたなあの時は。何しろ制服を作りに行ったら店員が持ってきたのは仰々しい黒の制服だったからな。威圧感はあった。
 そろそろ尻餅の体制が恥ずかしくなってきたので、尻をはたきつつ立ち上がる。
 勢いはさほど強くは無かったな。あまり尻が痛まない。
 尻もちを付いた際につい離してしまったバッグを再度肩に掛け、睦月さんと向き合う。


「マイブームって……意外と性格悪いんですね」


 純粋そうな顔立ちでよくやるもんだ。


「お茶目って言って下さいよ。人聞きが悪いです」


 微笑みながらそんな事を言う睦月さん。
 間違いない。この人はモテる。
 マイブームとは言っているものの実際性格は悪くは無いだろう。寧ろ良いだろうね。


「さて……行きましょうか」


 睦月さんが俺を追い抜く。いや、追い抜くたって俺と向き合っていたからね。俺の方に進めば追い抜くのだが。
 俺は付いて行こうと歩く。が何を思ったか睦月さん、ペースを落として俺の隣に付いて歩き始めた。
 本当なら自分で一人で行きたい所だが、如何せん此処の土地勘が無い。つまり今睦月さんが俺の命を握っていると言っても過言ではない。
 誰か俺の編入する高校の野郎が見ていないだろうか。
 たまたま俺の学年が見ていて、たまたまソイツが同じクラスで、たまたまソイツが言い触らしやがったら俺は間違いなく編入早々不登校になってやる。
 だってそうだろ。春休みにこんな所見られたら嫌だろ。
 新しい土地で俺の新しい生活か。どんな物になるだろうか。
 ただ一つ言えるのは。
 睦月さんが酷く接近し過ぎているって言う事だ。


 ***


 半ば壊す気でうるさく騒ぐ目覚ましを止める。朝から元気なヤツだ。朝が嫌いな俺に対する嫌がらせかといつも思ってしまう。
 今時ハンマーで金属を叩いて音を出すタイプだ。ふむ、なかなかいい音を出すではないか。
 意外と目覚めが良いなコレ。伊達に一九六六年物のつわものではない。
 起き上がり、俺の新しい部屋を見渡す。と言っても昨日散々見たんだけどな。
 畳に布団、障子にふすまと見事な日本家屋の一室だ。昨日まで住んでいた平均的な平成に立てられた住宅であった自宅とは違う家。
 それもその筈。この家は母親の姉、つまり俺の叔母の河本 京子──コウモト キョウコ──さんの家なのだ。因みに睦月さんは京子さんの子供じゃないから俺の従兄弟ではない。
 第一母に姉が居た事実すらこの前初めて聞いた話で、実質初対面といっても過言では無いのだ。実際には俺が赤ん坊のときに会った事あるらしいが、赤ん坊の時の記憶なんぞ、無論無い。余談だが、俺の京平の『京』は京子さんから取っているとか。何で両親から取らなかったのが不思議であるが、そこは正直どうでも良い。
 寝巻きに着ているジャージを脱ぎ、昨日ハンガーに掛けたズボンを履き、次いでYシャツにも袖を通す。左袖に学年カラーの緑の刺繍糸で縫われたローマ字体の学校名が嫌に目立つ。
 黒の仰々しいネクタイを締めた後、これまた黒のブレザーを羽織り、俺に宛がわれた部屋を出る。
 それにしてもこの制服は本当に威圧感がある。胸に縫い付けた赤が主体の校章がなければ本当に喪服に見える。
 何でこんな制服にしたんだか……よくわからんな。公立なのに。
 朝食を取るべく居間へと足を運ぶと、既にお膳の上には朝食が二人分並べる京子さんが其処に居た。
 朝の挨拶を軽く交わし、畳に腰を降ろす。目の前のお膳に並ぶは、完全に和食。詳細に挙げれば油揚げとネギと豆腐の味噌汁、鮭、ご飯、ほうれん草の胡麻和えといった所だ。
 うむ。うまい。母親が作った物とは比べ物にならない程だ。……寧ろ本当に血が繋がっているのか?
 自慢じゃないが俺の母親はあれだ。一度ならまだしも一ヶ月に三回は簡単な野菜炒めやカレーでさえも謎の炭素化合物に変えちまう事がある。
 俺でさえカレーを失敗した事が無いのにも関わらず、固体の暗黒物質に変えるその様は正に錬金術師と言えるだろうな。二つ名は黒炭の錬金術師ってのがぴったりだ。


「此処からの学校への行き方、わかりますか?」


 内心で舌鼓を打ち満足しきっている所に来た質問。
 飯に向けていた視線を上げ、俺の正面にいつの間にか座っている京子さんに合わせる。
 腰までに届く長い黒髪にほんわかとした雰囲気を漂わす目。この辺が一族の血なのだろうか、そういえば睦月さんも似たような印象を受けたな。
 かという俺はそんなほんわかした印象はないけどな。
 ただ、見た目がすんげぇ若い。まず、今年で三十六の母より年上とは思えない。二十代に見えるその妖艶さを誇っている。


「まぁ……駅までの道がわかるので、一応は」


 駅から歩いてすぐの所に、桜の木が両端に植えてある坂道がある。
 実はそれが俺が通う事になる白峰高等学校の敷地の一部であり、その坂の上に校舎がある。
 八十年位続く高校らしいが、校舎が馬鹿でかく一見すると私立と見間違える程だった。前の町の公立校がオンボロだっただけに、編入試験で見た時余計に綺麗に見えたね。
   話に聞くと最近新たな学科が白峰高校に出来たらしく、教室が足りない事態に陥ったために校舎を改装と言う名の建て替えを行ったらしい。
 それと市内に高校が少ない為に元々生徒数が多く、また進学も狙えるため市外から来る生徒も少なくは無いらしい。さらに東京から近いためベットタウンとしての機能を果しており、人口が此処数十年で一気に増えたらしい。
 それに比例して生徒も増えて、進学するなら此処というイメージが定着しているので更に生徒が増えた……ってのが建て替えの理由の一つにもなっているらしい。


「そうですか、どうやら余計なお節介だったようですね」


 ん? 余計なお節介? 何の事だ?
 普通そんな事でお節介と思うか? それと、京子さんの意味有りげなその笑みも気になる。
 そう、まるでそれは他人の恋愛を面白がって茶化す女子高生の様な……何なんだ。
 ま、気にしてたら始まらんな。兎に角飯だ飯。腹が減っては戦は出来んってね。
 飯を黙々とついばみ、最後に味噌汁を啜りお椀を空にする。うん、味噌汁が絶品だったね。
 一言挨拶をし、完全に空になった食器を流しに片付けるべくそれらを上手く持って、流し場へと向う。見ると、まだ京子さんは朝食を取っていた。
 流し場の水に食器を浸した後、台所に掛けてある時計を眺めた。現在八時ジャスト。公立なのにも関わらず自転車通学を禁じてる学校故に、早めに出た方が安全だろう。
 それに編入早々遅刻の醜態は流石にさらしたくない。教師連中に間違いなく嫌な意味で名を覚えられる。実に不名誉だ。
 よって俺は一度部屋に戻り、通学鞄を探す。確か……ハンガー掛けに掛けてあった筈だ。
 おし、あった。始業式だから教科書は使わんからかなり軽い。重さは鞄と最低限度の筆記用具だからな。
 もう一度部屋を後にし、玄関へと向いローファーを履く。何でローファーまで指定なものなのかが良く解らんが、どうせ学校か葬式程度しか履かないからどうとした事は無い。
 いつの間にか朝食を終えた京子さんが後ろに立ち、いってらっしゃいと挨拶を掛ける。
 短く生返事を返し、玄関を開ける。そして目の前に睦月さん。
 ああ成る程。さっきのあの笑いはコレだったのか。訳が判明すれば冷静に現実を受け止められる賢しい性をこれ程までに感謝したとはない。


「……何でここに居るんですか」


 一応聞いてみる。
 自信を持って言える。俺は次に出てくる言葉を当てる事が出来る。


「それは勿論……京子さんに呼ばれたからですよ」


 予想通り。
 親戚の情報ネットワークは恐ろしいものだ。遠からず血の繋がった親戚が、しかも同じ市内に居るからすぐに情報が伝わる。


「大方、学校までの案内を頼まれたんでしょう?」


「わ……よく解りましたね。京平君、超能力者ですか?」


 大当たり。誰か俺を褒めてくれ、敬ってくれ、拝んでくれ、景品をくれ。
 一度大きな溜息をついて、再度振り返る。例の笑みを浮かべている京子さんが居た。
 ……貴女本当に何歳ですか?その笑みが似合う予想最低年齢三十六歳以上の女は早々居ないですよ。


「……行って来ます」


 頭を掻きつつ、前へと進む。
 ……なにやら俺はこの二人に翻弄されてこの街で生活を強いられるようだ。
 幸先が実に不安だ。


 ***


 途中で何度か奇異の視線──主に男子からの──貰いつつも、何とか校舎に例の坂に辿り着く事が出来た。
 坂の前を見れば黒の制服がごった返しになる異様な光景を想像していたのだがそうでもない様だ。
 黒の背中ばかりではなく、白い学ランと同様に白い……アレはなんと言うのだろうか。言うなれば長袖のワンピース状の様なかなり風変わりの制服だ。
 ……あれとそっくりなデザインの制服を、俺はTVCMのアニメで見たことがあるぞ。俺はオタクじゃないから見てはいないがな。
 此処に来るまでは別の学校の制服かと思っていたが、そうではないようだ。


「睦月さん、俺らと別の制服着ているのが居ますけど……アレは?」


「白いのですか? ……療養科の生徒ですよ」


 療養科? 医学系の学科だろうか。それにしては療養って言葉が気になるが……
 それと睦月さんが一瞬見せた悲しげな表情も気になる。……何なんだろうか?
 ま、暫くすれば俺も解る事だろうな。今はのんびりと学校生活に慣れるのが先決だろう。
 人生のんびり……とな。なんか老人臭いがそれもまたいいだろう。
 きついのだか緩いのだかよく解らん坂を登り終え、校門にたどり着いた。校名が刻まれている石のプレートも新調したのだろう、妙に門とその石が真新しい。
 取り合えず睦月さんに職員室の場所を教え貰った後、昇降口に張り出されたクラス分けで自分のクラスと番号を確認。確認しないと取り合えず自分の下駄箱が解らんからな。五組十番、まぁ妥当なところだろう。
 そういえば下駄箱前には療養科とやらが一人も居ない。別の昇降口なのだろうか。ま、そんな事はどうでもいい。
 問題は睦月さんに職員室を教えて貰ったはいいが、転校経験が皆無で今回がデビューの俺が戸惑うのは当然の理。物理法則並の必然性だ。
 最初の失敗は担任名を確認しなかった事。職員室で教師の名を言わんとどれが我が担任なのか全く解らない。
 まぁ冷静に考えて、転校生のまだ学校に慣れていないと言う特権を使い二年五組の担任の誰何を求め、事なき事を経たのだが……いやはや転校も厳しいもんだね。
 そのまま始業式に参加し、全国共通であろう校長の役に立たない話を延々と聞かされる羽目となった。校長の頭が意外と禿げている事に気が付いたが、どうやらそれは既に学校中の常識らしい。
 その校長が時折頭を下げる動作で笑いが生まれていた。丁度禿げ頭が正面に来る。あれ程見事な河童頭は俺もお初にお目にかかったからな。俺が失笑を堪えていたのも当然だ。
 それは療養科の生徒も同じらしく、下を向いて肩を揺らす生徒が多かった。基本的に学科の違いだけだから無理もないか。
 箸も転がるだけで可笑しく感じるこの年頃で、あの頭を見て笑わないやつが居るとすれば……訂正。実際真面目そうな生徒は笑っていなかった。無論、俺はその時点で真面目じゃない生徒にカテゴライズ出来るかもしれないな。
 校長の長々しい話を切り抜け、その他表彰などを聞き流した俺は蟻の行列よろしくに我がクラスとなる二年五組教室へと向った。
 立て替えたからか過去に滑り止めに受けた私立校を彷彿させる教室だった。いや、校舎の見た目も中もまるで私立だった訳だが……。
 教室に戻ってからは恒例の担任紹介、及び自己紹介。ああ畜生、毎回毎回コレが面倒なんだよな……。
 その上俺はカ行だから回ってくるのが早い。だから言う事を早急に考えなければならないのだ。
 ま、俺は中学から殆ど不変の自己紹介用テンプレートを持っているから苦労はしないのだが。
 そのテンプレートを遺憾なく使用し、ごく普通の自己紹介をやってのけた俺だったが、担任が転校生だからよろしくするようになんて事を付け加えた。
 ……自分がそんな事言われるとは思っても見なかったので少し複雑だった。
 立った状態から椅子に座る。クラスの総数は俺を合わせ四十人。男女半々で丁度均衡が取れている。
 前の学校では男十五人、女子二十五人という意味の解らん構成だったから一安心した。学級内の多数決で負けるのが必至だからな。
 ふと背中に走る感触、どうやらペンで背中を突付かれているらしい。
 振り向き、俺の背中を突付く奴を顔を見る。男だ。俺の後ろの名前は確か……


「よ。片陸とやら」


「草加とやら、俺に何の用だ?」 


 そう、草加 三成──クサカ ミツナリ──だ。
 ニヤニヤとした顔が整った顔を半減させている。実にもったいない。


「率直に聞こう。柳内先輩とはどんな関係だ?」


 噴出しそうになるのを堪えて、もう一度草加の顔を見る。草加が今日朝一緒に登校してたよな、と追加攻撃を加えた。……一体何処で見てやがんだコイツは。
 髪は短髪、運動が出来そうな顔つきだ。なかなかの好青年であるが、ニヤニヤとした口元が頂けない。
 多分コイツはモテない。勘と言う、酷く根拠が薄いものだが。何故か断言できる。


「で?実のところは?」


「親戚だ。案内ぐらいして当然だと思うが……」


「なら安心した」


 何故コイツが安心するのだろうか? 大方予測は付くが、敢えて口には出さない。
 女好き……なのだろうか、こいつは。しかしこういう奴に限って奥手だったりするんだよな。


「時にお前はこの学校の生徒の女子をチェックしていないか?」


「誰がそんなタラシだって? 俺はコレでもヘタレなんだよ。柳内先輩に一目惚れだ……一年の頃からな」


 頬を赤らめる所から見ると初なヤツだな。て、自分でヘタレと言う辺り変わった奴だな。
 どうやら俺の予想が大当たり、奥手な奴だった。


「ま、頑張りな。俺は手を出さんし、睦月さんはあと一年で卒業だ。親戚の特権を使って手伝えるなら手伝おう」


 俺だって高校生だ。
 こういう話題には食いつくし、興味はある。
 それにコイツをからかうのは何とも面白そうだ。


「お前いい奴だな」


 俺がいい奴?
 見事な勘違いをなさっているようだ。
 俺はアレだ。うん、所謂人の恋愛を喜んで茶化す男だ。面白いだろ? 人がオロオロする所見るのがさ。
 ま、言われて気分悪くはならないけどね。
 そろそろ担任が気が付く頃だな。転校生が行き成りだべっているのは余り好印象ではないだろう。
 担任の方へ指を指し草加に促す。幸い、物分りのいい奴ですぐに黙ってくれた。
 現在自己紹介はマ行に進んでいた。もう自己紹介は終盤に差し掛かっていた。


 ***


 休み時間、草加に自販機の場所を案内して貰った。
 気のいい奴で助かり、同時に睦月さんに感謝をした。コイツが睦月さんに惚れていたお陰で、なんとかコイツと仲良く出来そうだ。
 流石にクラスで孤立する羽目にはなりたくない。ついでに聞けば草加は文系に進んのはいいが、友人が皆理系に行ってしまって内心ハラハラしていたらしい。
 ま、クラスが出来たての頃は皆猫を被っており、入学当時に戻るからなんて事は無い。五月終盤頃から皆の仮面が外れる。特に……女子はな。
 自販機の場所は何て事はなかった。どうやら各階に二台はあるらしく、廊下の真ん中にある位置に置いてあった。
 学校内の飲み物などは値段が安い。普通の自販機なら百二十円のものが九十円で買え、百五十円のものが百二十円で買える。
 あまり自販機の前には並んでおらず、意外とすんなりと買えた。
 草加はゼリー──缶を振って飲める状態にするタイプ──を、俺は前の学校でもあった梅のジュースを買った。


「と……すっとお前と柳内先輩はこの前初めて会ったのか」


 缶をシャカシャカ振りながら草加が聞く。
 商品の色合いから見るとどうやらグレープ味らしい。
 ゼリーとしてはブドウは美味いから、いい選択かもしれない。商品的にも、草加の選択としてもな。


「編入試験の時にな。学校を駅から案内して貰おうとしたんだが……これ程近いとは思わなかった」


 小さいペットボトルを開け、口に付ける。
 甘酸っぱい味がなんとも言えない。実に俺好みの味だ。
 草加はプルタブを引き、ゼリーを口にしていた。普通の液体だと立てる筈の無い音を缶が立ている。正直気味が悪い。
 味はいいのだろうか? 飲むときの効果音はどろりと言った表現がよく似合いそうだ。
 見ているこっちが余計喉が渇きそうだ。もう一度飲み物を口に含む。


「まぁな。日本一……ではないが日本でトップクラスの駅からの近さを誇っているらしいからな。……路線はローカルだけどな」


 確かにな。
 一応は交通の便はいいが、電車は平均一時間に四本。多くて五本だから正真正銘のローカル線だ。
 いつの間にか草加が飲み終わり缶をゴミ箱に捨てていた。コイツ飲む速度が速い。
 残り半分となったペットボトルを一気に飲み干す。冷えすぎていた所為かほんの少し頭が痛くなった。但し、ほんの一瞬だが。
 空になったペットボトルをゴミ箱に捨て、遅れるぞと草加が促す。尻ポケットから携帯を取り出し時間を確認する。成る程、始業時間まであと四分だ。
 多少急ぎ足で教室に戻ろうとした時視界の端、自販機の近くにある階段から出てくる白い影を捉えた。
 足を止め振り返る。白い影の正体が多少なりとも気になったからだ。
 正体はなんてことは無かった。療養科の女子生徒だ。どうやら飲み物を買いに来たらしい。っと此処は普通科の校舎。
 多分療養科の校舎にも自販機が各階にあるだろうに。う〜ん謎だ。
 非常に気になる所だが、俺も時間が惜しい。再び早足で教室に戻る。
 教室に戻ると……担任が教卓前に付き、何故か遅れてもいないのに遅れた形になった俺と草加であった。
 担任の冷たい目が俺らに突き刺さる。一度顔を見合わせ、もう一度担任に顔を戻した後愛想笑いを浮かべて席に座る。
 まだチャイムはなってはいないが、担任とっては十分遅刻と言う事になっているらしい。几帳面な教師だと俺は評価した。
 おもむろに担任が溜息を付き、俺らを睨む。こうなったらもう一度愛想笑いを浮かべる事しかないだろう。愛想笑いを浮かべたと同時にチャイムが鳴り響く。
 自己紹介の時に比べ多少重くなった空気でHRが始まった。
 コレを思うのは本日二度目だが……幸先が実に不安だ。


「担任の第一印象悪くなったな……俺ら」


 後ろでシャーペンを突付きながら草加がひそりと喋りかける。
 確かに、担任の第一印象は悪いだろうな。
 全く……入学初日から実に頭が痛い。
 咳払いを一つ付いて、HR開始した担任。その間の連絡事項をメモりつつも、頭では全く別の事を考えていた。
 白い制服、療養科。昔から気になったら延々と気になる性分な俺は今もさっきの療養科の生徒を思い浮かべていた。
 本当に療養科とはなんなんだろう? 医療系なのか? 療養の意味は? 実に気になる。
 どうやら俺はつくづく変わった学校に編入してしまったらしい。


 ***


 何とかHRを終え軽い鞄を肩に掛ける。
 クラスの大半が似たような状況だ。
 まあ新しいクラス故に皆緊張しきっている為、同じクラスだった連中を除けば沈黙と言った感じだ。
 転校生である俺も例外に漏れぬ筈だったのだが、草加と言う思わぬ奴に遭遇したお陰で何とか話し相手が出来た。
 適当な会話をした後、電車通学だからと颯爽と帰ってしまった草加を見届け、どうせ帰ってもやる事が無いし明日からの授業で迷うのもアレだから学校探索する事にした。草加の奴電車通学って事は例のローカル線を使うのか。朝が大変そうだ。
 其処、小学生みたいと言うな。俺だって必死なんだ。
 第一に今後お世話になるであろう学食の位置を確認した。なかなか綺麗でその上、席数も多そうだ。
 今日はまだやっていないらしいな。まあ当然の事だろう。
 次にさて、他の場所に行こうかと思った時に気が付いた。
 俺は如何にして学食の場所にたどり着いたのだろうか? 確か適当に歩いていたら運良く学食にたどり着いたんだよな。
 おい、まてよ。コレって俺は迷った事になるんじゃないか?
 取り合えず適当に歩いていたら学食に着いたのだから、適当に歩けば戻れるだろう。
 勝手にそう決め込んで取り合えず自分の辿って来た道を歩こうと決め、踵を返した。
 しかし、何たる僥倖か。生徒があまり居ない本日の学食前で、生徒に遭遇したのだ。実にツイている。
 白い制服だから療養科……ってさっき自販機に居た女子生徒か。
 昇降口は違うが少なくとも俺よりはこの学校を知っている。無論、昇降口までの道を問うのは聞くまでも無い。


  「あのさ……普通科の昇降口って何処か解る?」


 猫が驚いたときに見せるあのまん丸の目をまさか人間もなるとは思わなかった。


「ああ、俺は校内で遭難と言う至極ベタベタな悲劇に陥った、しがない転校生だ。どうかご慈悲を」


 しまった。ちと過剰な演技になってしまったか。くどい。まるでB級スパイ映画の主人公並みにくどい台詞だ。
 見よ、目の前の療養科生徒が怯えてしまっているでは無いか。
 それとも怒ってんのか? 例えば彼女が演劇部で俺の余りの大根役者っぷりに演劇を侮辱されと思い、怒髪天を付く状態とか、もしくはただ単に呆れているとか。
 表情をちらりと伺い、白い生徒の様子を見る。
 怒りでも呆れでも無い表情だ。敢えて言えば……俺が唐突に話しかけた当初の猫の驚いた様な顔のままだった。
 反応が遅いというのか、それとも俺が急に話しかけた時点でフリーズしてしまったのか。いずれにせよ、恐らく俺のくどい台詞は上の空で聞いていないと思われる。
 これは予想外だ。何たる僥倖だろう。
 しかし……見事に無反応だ。死後硬直よろしくで俺の方向いて突っ立っている。
 こうも見事に突っ立て居ると無性に悪ふざけをしたくなるのは人間の性か、それとも俺のひねくれた根性が生み出す産物か。この際どっちだっていい。
 この俺の可虐欲求を満たせばそんな事はノー・プロブレム。ま、大した事はしないがな。
 一度彼女の目の前で手を振り、反応を確かめる。確かに無反応。実行開始。
 内ポケットをまさぐり、ペンを挟んだ生徒証を取り出した。挟んでいたペンを抜き鼻っ面に構える。未だに無反応。これほどご都合主義がまかり通る瞬間をありがたく思った事は無い。


「ふぁいえる──発射──!」


 ドイツ軍、或いは某宇宙戦争小説の帝国軍風に号令を放ち、ペンを少女の鼻の穴に挿し込む。
 大成功。効果音に例えるなら正につぷ、以外に無いだろう。


「……ッ!!!!!」


 おっと、やっと反応した。
 えらく鈍いな、おかげでかなり気まずい空気が一瞬流れた。だったらやるなってなツッコミはお断りだ。
 長く挿しっぱなしは俺の無いに等しい良心が痛むので、反応をした時点で抜いた。こんな姿を仮にこいつに想いを寄せる奴が居て見ていたら、そいつが絶望するか俺の処刑が目に見えている。
 観察して面白い恋をぶっ潰すのは俺の趣味に合わんし、俺は流石にそこまで性格は歪んでいない。……性格の破綻は矯正不能な域まで達しているのは認める。


「な、何するんですか!」


 ……おいおい、その反応はなんだ。
 そっちが話しかけても反応しないから、俺が致し方なく鼻にボールペンを突っ込んだろうが。


「いやな。反応しないから」


「だからって……突っ込むのはない思います……」


 もっともな話だ。
 冷静に考えればどうみても俺が悪い。第一動機が不純、その上小学生並の発想。これは流石に余りにも酷すぎるのではないだろうか? 精神的に行動的に……これは高校生がやる事ではないのではないか?
 ……まずい。自分でも非常に恥ずかしくなってきた。


  「そこは確かに俺が一方的に悪い。出来心故の所作だ。すまない」


 一瞬苦しい言い訳を考えたが、頭も下げ素直に謝る。いや、寧ろここで謝らなかったら俺の人間性が疑われる。既に初対面の人に鼻ペンやる時点でイっちゃてるって思わないように。
 あれは俺でも酷かったと思う。猛烈に反省している。信用できない政治家が使う秘密兵器の『誠に遺憾です』、が自然に言葉に出てきそうだ。


「え……あ……いいですよ……そんなに気にいませんし。逆にそんなに謝られるとこっちが困ります」


 どうやら許してくれたらしい。相当気のいい人で助かった。
 まず俺なら口でも許すとは言わないだろう。自分にやられて嫌な事は他人にやってはいけないと言う、人道的に当たり前な事が出来ていない俺が言うのもアレだがな。
 ま、そこは今は置いておこう。なんせ今は迷子と言う非常事態だ。
 下げていた頭を上げ、丁度少女と正対する形となる。いや、少女の鼻にペン突っ込んだ時点で正対していたから語弊だな。
 正確には少女の顔を見直した、と言うのが妥当であろう。
 ある程度、少女の緊張が解れたとは言えまだ何処か警戒している様な印象を受ける。う〜ん警戒心が強いと言うかなんと言うか。


「もう一つ悪いんだけどさ。普通科の昇降口何処か解らないか? この学校はさ、転校生には非常に優しくない造りだ」


 困ったものだ、と半ば自嘲的に俺は呟き、真新しい上履きのつま先で同様に真新しいリノリウムの床を三回叩いた。
 その仕草にか、或いは自嘲的な呟きか、俺が転校生と言う事を知ったせいか、何故か……本当にいきなりそこで少女の緊張と警戒は一気に、そして完全に解れた。
 外見的で本当に解れたかどうかは確実には言い切れないが、少なくとも肩の力は抜けているから大体は解れているのだろう。
 妙に構えられるとこっちもなんだか気が引けるので、その点助かった。
 警戒され案内される所を想像していただきたい。妙に気を使うので疲れる、と言う人が少数でも恐らく居るはずだ。


「転校生……なんですか。なんでこんなところで迷っているんですか?」


「小学生みたいだがな、一種の学校探検をしていた。本音は学食の位置を知りたかったんだがな」


 少女の足元を確認し、上履きの学年色を確認する。確か療養科も普通科も学年色は共有なはずだ。
 色は緑だった。つまり俺と同じ二年を意味している。


「そうなんですか……解りました。普通科の昇降口まで案内しますよ」


 付いてきて下さいと一声付け加え、俺の目の前を歩き始める少女。
 現時点で少女に頼るしかない俺はいそいそとその後を追う。
 真新しい白く塗られた壁が、妙に目に痛く感じた。


 ***


 迷う……と言っても大した事ではなかった。
 ただ単に学食の位置が、普通科の校舎から見た場合思った以上にわかり辛いだけであった。
 少女に導かれて何とかただっ広い昇降口に辿りついた俺は、一息ほうと溜息付いた。その溜息も、昇降口に響く靴箱を閉める音、すのこが揺れる音にかき消された。
 まだ下校者がぼちぼち残る中、それでも相当な重圧を放つ黒の制服の手段中に一人だけ白い制服を着ている少女は嫌にでも目立った。
 事実、その黒の集団の数人……いいや。これは数十人と言った方がいいか。兎に角少女を見返し、若干の戸惑いを見せていた。
 それにしても女子も男子も真っ黒な制服は妙な重圧感があるな。こりゃ、この少女が最初俺の事を警戒レベル最大で接したのも頷ける。


「すまないな、助かった」


 感謝の言葉を述べ、近くの壁に寄りかかる。真新しい壁なので寄りかかってもブレザーの背中にホコリが付く……って事は無いはずだ。
 寄りかかった際にモノが入っていない通学鞄が潰れかかったので、一度鞄の位置を変え、再度寄りかかる。


「役に立ちましたか?」


 などと少女はとっても当たり前な事を聞いてくる。それも結構不安そうな顔で。
 いや、これで役立たずとか言う奴の方が少ないのではないだろうか? 例え、史上最悪のツンデレであっても乱暴な言葉の中にでも役に立った……の意が含まれてるはずだ。
 俺の偏見と独断で想像したツンデレがこのザマだ。役立たずと言う人間は相当心が腐っている事であろう。性根が百八十度に捻じ曲がった俺が言うんだから間違いない。


「そら勿論。学校の総合学習とやらの時間よりも相当役に立つ」


 なんだかよく解らん返答になってしまった。
 それに総合学習よりも役に立ったて冷静に考えれば、物凄く微妙なのではないか?
 だってほら。早い話が面接の時に真珠湾並みの奇襲で襲ってくる総合学習で何を学んだか……と言う質問ぐらいしか役に立たないのではないか?
 実際中学以上の数学よりも実用性の低いモノだと思うのだが……いやはや。これは失言だったか。
 しかし少女の表情を見ると、あながち失言では無い様だ。不安そうな表情は掻き消え、対義語である安心した表情がそこにあった。
 良かったと心底安心した声でそんな事を言う少女に、ツッコミでも入れようとした時にだ。俺はその表情で初めて少女の細かい容姿に目が行った。
 短いとも長いとも言えない髪……セミロングと言った具合に切られた髪と、多分大きいほうに分類される目。顔全体の印象がまだ幼さを残しており、女性の柔らかい輪郭を持っていないところが特に顕著だ。背は女子高生の標準といったところだろうか。高くもなければ低くもない。
 全体の印象が多少地味に感じられるが、少し着飾れば人気が出るのでは無いだろうか。って何て変な事考えてんだ俺は。
 とうとう俺も変人から変態にレベルがあがるのだろうか? だったら嫌だ。猛烈に嫌だ。


「……お前、どれだけ緊張してたんだ? 表情の変わりようが目に見える程だったぞ」


 結局鋭いツッコミも出来ずに苦笑いを浮かべてはぐらかした俺に、少女は慌て反応した。そうですか?と、いかにも図星を突かれた様な反応だ。
 もしかしてコイツ……とてもからかい甲斐のある奴なのではないだろうか?


「面白いな。お前」


「そうですか……よく皆から鈍臭いって言われるんですが……」


 いや、そこが面白いんだって。敢えて口に出さないないで、照れた様な表情を浮かべる少女を眺めた。
 なんと言うか……コイツからは本当に苛めたくなるオーラが滲み出ている。


「じゃあな。本当に助かったよ」


 壁から背中を離し、朝にローファーを放り込んだ靴箱へと向う。幸い、少女と話していた場所から一直線の場所が俺のクラスの靴箱だ。距離は十mあるか無いかであろうか。兎に角短い距離だ。
 靴箱の大体の位置は解っているし、朝の記憶では出席番号のシールが張っているから万が一忘れていても、自分の出席番号を覚えていれば自分の靴にたどり着ける。
 昇降口のそれぞれの靴箱の正面に置かれているすのこに足を置いた、それとも数歩進んだ時か。兎に角俺がすのこに乗ってすぐにだ。
 唐突、本当に唐突に彼女がそれまでの消極的な印象からは考えられないような大きな声を出した。それは先程まで居た場所から、俺のクラスの靴箱に届く程度の声であったが、それでも彼女にとっては十分に大きい声だ。


「あの! 私二年B組の葉月 成美──ハヅキ ナルミ──です!」


 本当に突然の自己紹介。それもこれまで経験した事の無い様な形で、経験した事の無い様な場所で。
 そう、全ては突然だった。この地に俺だけ引っ越しが決まったも、その先で睦月さんと再会した事、今正に少女の名を聞いた事や、療養科はアルファベットで組分けされている事。そして、コイツと出会った事も全部。
 だからそれは本当に忘れように無い。いや、多分忘れたくても忘れれ無いだろう。この自己紹介は。そんな確信めいた自信が何故かぽっと俺の頭に浮かんだ。
 靴箱に向けていた体を少女……葉月 成美に向ける。かたりとすのこが二回音を立て、僅かに揺れる。それは俺が方向転換した証。


  「……二年五組、片陸 京平だ。宜しく」


 はい、と律儀にお辞儀まで付けて返事をする葉月は次いで、こちらも宜しくお願いしますと満面の笑みでこちらを向いてきた。
 なんだかそこまでやられるとこっちが恥ずかしい。
 急ぎ足で療養科の校舎に戻る葉月の姿を目で追い、それが階段を上りその背中が見えなくなるまで追い続けた。
 ふと昇降口であちらこちらで響いていたすのこが揺れて出す音、靴箱を閉める音の数が明らかに……いや、この場合全く鳴っていないと言うべきだろう。しんと静まり返っている。
 静寂に包まれた中、俺は靴箱の戸を閉める音を響かせ一人馴れない帰路に着くべく、校門へと歩き始めた。
 ──ふと空を見上げれば、まだ高い位置にある春の太陽が、半日授業である事を密かに教えていた。
 



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