英二は十八歳だった。故郷の福島から、東京へと出稼ぎに来て、早四年。とりあえず、国民学校の高等科に上がったものの、それ以上勉強をする気も無かった。何よりも、農家の次男坊として産まれた英二が、これ以上、学費で家計を苦しくはしたくなかったのだ。そんな事で、高等科卒業後、すぐさま東京に出稼ぎに来たのである。
そんな生活も、残すところ一年。一年経てば、英二のところにも赤紙……つまり召集令状が到着し、出兵される運命にあるからだ。
英二にとって戦争は良く解らない事象だった。周りの友人は勇んで鬼畜米英だとか、八紘一宇とかを声高に叫んではいたが、英二にとっては、そこまで興奮するものとは思えなかった。あえて興奮した事と言えば、福島の田舎に数発落とされた焼夷弾の不発弾の一つを、棒切れで叩いて遊んだ位しかない。もっとも、その後発火して、村を騒がせる一大事に発展したのだが。
そんな村の大人から悪ガキと見なされていた英二だが、出稼ぎ先である工場の仕事の飲み込みが早く、工場長から一目置かれる存在となっていた。
いつからか、東京に飛来する爆撃機の数は劇的に増えており、それに比例して焼失する建築物も右肩上がりに増えていった。その消失した建物には、英二が下宿していた下宿屋も含まれ、一時的に英二は住居を失った。その時、英二は爆撃の範囲外であった工場に居たために、住居がなくなる被害を除けば、全くの無傷であった。現在、工場長の家に下宿しており、住居には困ってはいない。
一九四五年、三月九日。その日も英二は工場に居た。国内に残る少ない鉄を、加工する工場である。主に英二は旋盤を使って、細部の加工をする仕事を任されていた。実際は如何なる作業でもやってのけるのだが、工場長いわく、一番に筋がいいのは旋盤との事だった。
「英二、休憩だぞ」
旋盤機と向き合い、さながら一つの装置のように作業していた英二は、一度作業を中断し、声の方向に体を向けた。ただ、体の正面は向けても右手は旋盤機の端に置いてあり、いつでも作業に戻れるように構えている。視線の先には同い年で坊主頭の同僚、川田清作が一人、両の手を腰に当て立っていた。
「清作か、いつ休憩の号令がかかった?」
「かかったよ。疑うなら時間を見てみな」
英二は旋盤機にかけていない左手で、作業着の胸ポケットから懐中時計を取り出した。質素な装飾が施された、鉄色の蓋を開け、英二は視線を文字盤に落とす。時刻、十二時十一分。この工場では十二時十分に休憩だから、確かに休憩開始から一分経っている事になる。英二はこの時初めて旋盤機から右手を外し、朝の作業開始から続いていた、旋盤機との同化を解いた。清作は英二の異常なまでの集中力の高さに、呆れたような顔を見せている。
「もう昼か、早いな。それで、清作。昼飯はいつもの場所でか?」
立ち上がり、そう清作に問いながら自分のカバンが置いてある位置にまで、歩いて行った。カバンの中には、工場長の妻が作ってくれた、弁当がある。食料事情が厳しい中、英二の弁当をいつも作ってくれる、優しい女性だ。
「ああ、鉄臭い工場の中で食いたくはないだろ」
その通りだ、と、内心で同意した英二は、カバンから取り出した弁当箱を提げ、無言で工場唯一の出入り口へと向かう。途中、その隣に清作が加わり、二人揃って工場の外へと出た。その日は肌寒い天気だった。
工場から暫く歩いた所に小さな土手がある。土手と言っても、僅かに小高いだけであり、近くに川はない。丘と言うにはいささか低すぎるのだ。
その土手に座り込み、英二は昼食を摂った。清作は未だ弁当箱と格闘している。その間英二は、土手から臨む東京の町並みを眺めた。空襲によって焼けている場所が多々見られる。歩いても焼け跡が増えてきたと実感できるのだが、見下ろせば、英二の予想以上の面積が焼けていた。
どうもその光景を見ると、気分が下がる、と英二は一面の焼け野原になる一歩手前の様を見せる、東京の町並みから視線を外し、隣に座る清作を見た。清作はようやく弁当箱との決着を付け、蓋を閉めていたところだった。
「なあ、英二」
弁当箱を包みながら清作が英二に問う。表情は気さくな少年のそれではなく、真剣そのものである。弁当包みに落としたままの視線の色はどこか暗く、重い。
「来年は俺ら、どうなってんだろうな」
英二の返答を待たずして、そのまま続ける清作。
来年、つまり二人が徴兵され、戦争に繰り出される年である。清作のどこか暗く、真剣なその表情は、来年には自分も加わるのであろう前線を想像しているのだろうか。
「さあね。少なくとも、こんなのんびりと行けない事は確かだな」
英二は想像した。自分とそう変わらぬ年齢の兵士が戦う前線。そこに来年の自分が居るのだ。果たして、自分は戦えるのだろうか。恐怖心に負けて逃げ出すのではないだろうか。軍隊とはどう言うところなのか。元から軍隊や戦争には興味のない英二にとっては、そこには栄光や名誉もない。それどころか、高い確率で生きて帰っては来れないのだ。ますます英二の理解の範疇の外となる事象、戦争。そこで見る戦争とはどのようなものなのか。内地で体感する戦争と、どう異なるのか。漠然としたその二つの疑問は英二が、徴兵の事を考えると決まって浮かぶものだった。
その二つの疑問を英二は未だ解決した事がない。結局のところ、実際に戦場に出てみるのしか、解決法は存在しないのだ。
互いに無言の二人の間に、初春の肌寒い風が奔る。英二は無言で立ち上がり、工場への戻り道へと歩みを進める。清作もその後を追い、かくして土手は無人となる。工場の戻り道、やはり二人は終始無言だった。
日付は回って、三月十日。午前零時二分。英二は下宿先である工場長の家の屋根に寝転び、ぼうと星を眺めていた。福島に居た頃に、ゆっくりと星を眺めた記憶はない。星を眺めるようになったのは、上京してからの事である。初めの内は、二週間に一回眺めていたのだが、最近では毎晩星を眺めに、こっそりと抜け出している。勿論、工場長にバレてしまえば、大目玉を食らう事間違いない。
正直のところ、英二は今晩星を眺める事をやめようかと考えていた。と、言うのも、二時間ほど前に空襲警報が発令されており、その際に工場長夫妻が起きてしまったからである。防空壕に避難後、しばらくして警報は解除され、工場長夫妻は再び寝付いたのだった。なんとかなったのだが、もし、そのまま起き続けられていたら英二は外に出る事は出来なかった。
数分だろうか、それとも数時間だろうか。じっと一点を見つめ、時間の感覚が麻痺した頃、それまで静かだった東京の町に低い異音が響き始めたのを、英二の耳は捉えた。
上半身を引き起こし、全神経を耳に集中させる英二。その低音は上空から聞こえた。まさか……と、英二の脳裏に一つの可能性が過ぎる。低音は徐々に近づき、とうとう英二のはるか頭上にまで接近してきた。再び夜空を見上げた英二の目に飛び込んだのは、黒い影。それも一つではない。数えるのが億劫、いや不可能な数だ。
敵機襲来。その言葉が英二の脳内に氾濫し、次にとるべき最良の行動を不明確にした。それに、例え冷静にこの状況を見れたとしても、注目を黒い影に奪われている英二に、何らかの行動を取れという方が難儀であった。
目を奪われていた黒い影の腹が開き、何かを落とす。焼夷弾だ。焼夷弾は英二の真上を通った時に落とされる。このまま落下すれば、自分の傍に落ちる。そう思っているにも関わらず、不思議と英二は恐怖を感じなかった。投下された焼夷弾はやがて、英二が眺める場所とははるかに遠い場所、黒い影の進行方向に流された。英二の視界から消えるその一瞬、落とされた焼夷弾は姿を赤い雨に変えた。
結局、英二の場所には焼夷弾は落ちてこなかった。
初春の日差しが東京の街を照らす。昨夜の空襲によって東京の街は、前にも増して焼け野原となっていた。黒、黒、黒、と望むところ一面は焼け跡のみ。
英二は工場長、清作と共に工場へと向かっていた。英二の下宿していた工場長宅、清作の下宿していた長屋は空襲の被害を受けなかったのだが、工場は空襲のあった方面に存在していた為、工場の安否を確認する必要があった。ただ、工場に近づくにつれ、残る建築物が減るところから見ると、工場の顕在は怪しいところである。
無言で歩みを進める三人。工場の安否を気にしているのか、それとも、辺りから聞こえてくる人々の慟哭の声のせいか、それぞれの表情は険しい。
やがて何処となく見え覚えのある風景に出くわした。辺りが見る影もなく、焼けて消えてしまっていたが、間違いない。その場所に間違いなく工場があった。かつてその場所にあった工場は、いまや土台の一部だけを残す廃墟と化していた。
呆然、と言った表情で、工場長がよろよろと、跡形のなくなった工場へと一歩、また一歩と近づいて行く。清作も予測は出来ていたようだが、現実の形となると、動揺の色を隠せないようだった。
英二はかつて、工場が顕在していた時の記憶を呼び起こし、自らの持ち場であった旋盤のもとへと向かう。
途中、英二は何かを踏んだ感覚を覚えた。歩みを止め、足を退けると、そこには奇怪な形をした金属片があった。作業途中のものにしては、あまりにも曲線的すぎるフォルムをしている。英二はしゃがみこみ、その金属片を拾い上げる。近くでよく見ると、鈍い銀色をしている二つの円形が、並んだような形をしている。交わりあっている箇所は、いびつに盛り上がってかと思えば、その数ミリ上の箇所では同じく、いびつにへこんでいた。二つの円形も、綺麗な円とは程遠く、上下左右、とにかく、いびつにひしゃげていた。それぞれの中心に、穴が開いており、その近くには辛うじて菊花紋章が確認できた。
「十銭硬貨……熱でこうなったのか」
ぽつり英二が独り言を呟く。十銭の表示は確認できなくとも、その重みで、いびつな金属片が二枚の十銭硬貨だと判断できた。その十銭硬貨は、空襲による熱の激しさを、その身で体現していた。
その手中にある今や二十銭硬貨と化した金属片を英二は握り締めた。
二十銭硬貨から、昨夜の熱が伝わってくる感覚に、英二は襲われた。まだ硬貨は燃えているのだと、そう理解した。
もう一度窓を覗きこむ。今日の浜名英二はその行動を何度も繰り返していた。それと言うのも、今日は孫が来るであり、いつもであれば、窓から外を覗き込むような事はしない。握り締めた左手の中には、あの日の二十銭硬貨があった。
東京大空襲の直接の被害は被らなかったとは言え、英二はそれに生き残った一人である。今日の孫の訪問も、その体験談を聞くためだ。
あの後、英二は職を失い、一度福島に帰った。実家の農業を手伝い、そこで終戦を迎えた。終戦を迎え、しばらくして、英二のもとにかつての工場長が訪問した。また東京で工場を開くので、一緒に仕事をしないか、と言う誘いだった。その誘いに英二は、二つ返事に了承した。
新しく設立した工場は、作業員こそ減ってはいたものの、全員が前工場で働き、それぞれの作業に関しては一級の腕前を持つ玄人達だった。その中に清作も居た。技術を持つ玄人が集まる工場、と言う事で、開設当初から、注文の依頼は多かった。特に、仕上げの精度の高さ故に、連合軍からの注文もあった事が、後に工場を躍進させる大きなきっかけとなった。
結婚、子供の誕生、それらと激動の時代とともにして生きてきた英二。激しい時勢の中、英二は仕事に没頭し、気が付けば自分は祖父となっており、共に歩んできた工場を定年する歳となっていた。その頃になると、もう共に働いてきた生え抜きたちも居なくなっていた。今になって思い返すと、自分は随分な仕事一直線の人生を歩んできたものだと、生真面目というか、無趣味と言うかよく解らない自分の性分に呆れてくる。同時に、今まで家族には何かすまない事をしてしまったと言う罪悪感にかられた。もっとも、その反動かどうか、周りからジジバカと言われるほど、孫を溺愛している自分にも少し呆れてしまっているのだが。そんな孫に、社会科の勉強で、あの日の事を聞きたいと切り出されたのは、四日前。英二は、今自分のすべき事は何か、それを考えた。別段、意識してあの日の事を話さなかった訳ではない。ただ、誰も聞かなければ、話さないだけであって、それまで聞きたがる者が現れなかっただけだ。自分のすべき事は何か。その答えを、あの日の体験談を後世に残す事だと、結論付けた英二は、あの日の体験を語る事に決めたのだった。
英二はもう一度窓を覗き込んだ。孫はまだ来ない。自分の体験談を聞きにもうすぐ、孫がやってくる。自分に戦争のむごさは語れない。それだけの体験をしてこなかったからだ。自分は運がよく生き残れただけだ、ただそれだけが英二に後世に伝えられる唯一の事だ。そう伝えた後、あの二十銭硬貨をみせてやろう。あの、十銭がくっつき二十銭となったあの硬貨を。自分の運が悪ければ、こうなっていた―――その言葉を添えて。
皺の多くなった手で、二十銭硬貨を握り締める。あの日の炎はまだそこにあった。