僕と彼の関係.2

からから



   目が覚めると視界の先に天井があった。普通の生活をしているのであれば、特に感動や驚きを感じることではない。それでも僕は妙な感慨に捉われていた。それはつい最近まで、天井のある寝床で寝ることが極端に少なかったからだろうか。
 ベッドから抜け出し、閉められたカーテンを開く。一瞬、目を刺すような太陽の光に目を細める。眩しさを堪えながら、どこか違和感を覚える町並みを軽く眺めた。都心から少し離れた、アパートなのか、マンションなのか、その辺りの区別がつきにくい建物が並んだ町並み。生活の臭いがしない真新しいニュータウンに比べると、それは十分に存在する。ただ、あまりにもその臭いが強すぎる気がするのだ。僕がつい最近──二週間前まで生活臭の存在しない場所に居たせいかもしれない。
 耳を澄ますと、小鳥のさえずり、少し離れた場所にある国道から聞こえてくる川のそれに似た音、子供の楽しげな声と、どれも穏やかさ、あるいは普遍さを物語るものばかりだ。少なくとも、僕が二週間前までに聞いてきた怒号、悲鳴、ぬかるんだ地面を進む足音などの絶望的なものは存在しない。
 そう、僕は戦場に居たのだ。それも、正規の派遣ではなく、非公式なものだ。ただ、危険手当てなどの出るものはちゃんと出ているし、その点から見れば通常のそれと大差はない。この事実が、税金を払っている国民に知れたらどうなるのだろうか。大臣、次官更迭? その辺りだろうか。マスコミは躍起になって政府を叩くだろう。
 近くにある目覚まし時計を手に取る。時刻は、七時五十三分。昨夜アラームをセットした時刻よりも七分早く起きた。普段ならもっと遅く起きるのだが、今日だけは話は別だった。
 今日は僕の部下……と言うべきなのか。部下は部下で間違いはないのだけども、人間関係に至っては部下と上司……いや、僕の場合だと上官だろうか。ともかく、上下関係では説明できない位奇妙な関係にある、その彼と街へと出かけるのだ。逢瀬と言えば聞こえはいいが、生憎僕と彼との間には男女関係にある感情が存在していない。あくまで僕自身はそう思っている。
 それに、僕の中、僕の感情の中には少なくとも恋愛感情は存在していない。そこからつながるもの、全て僕は捨てている。僕には必要のないものだから。そう、僕には必要ない。女のそれにしてはさっぱりとし過ぎた部屋。僕の性格、あるいは価値観が反映しているとも言えるだろう。
 寝間着のままキッチンへと向かう。ニュートラルからドライブへと移行させるために。エンプティからフルへと移行させるために。
   



 最寄りの駅までカワサキのバリオスに跨り、そこからは電車に揺られた。途中、山の手線に乗り換え、目的の駅まで、車内で老人と海を読んだ。ヘミングウェイは嫌いではない。むしろ、好きな部類に入るかもしれない。
 録音された車内アナウンスが僕の降りるべき駅、渋谷の名を告げた。老人と海をバックに入れ、電車を降りる。僕の他にも多くの人が降りた。
 自動改札機に切符を通し、駅の外へ。背後からはICカードで通過させた時の電子音がひっきりなしに鳴り響く。駅前はプラットホームとは比較にならない程の人がいた。
 見渡す限りの人、人、人。少し圧倒される。田舎から上京した気分はこういったものだろうか。都内には住んでいるものの、僕はこういった所にはあまり足を踏み入れない。僕自身が人の集まる場所を好まないのもあるが、こういった所に興味がないのも大きい。
 腕時計を見る。予定の時刻までは二十分近く余裕がある。座れるベンチ、そうでなくとも座れそうな場所を探す。が、目に入る所は、どこも占領されていた。無理もないだろう。
 仕方がなく、壁に寄りかかり、先ほど仕舞った老人と海を読む。紙の上のインクに意識を奪われる。海へ、カリブの海へ。
 丁度、老人が漁に出ようとした頃だろうか。不意に肩を叩かれ、ヘミングウェイの世界から解脱した。視線を上げると、彼が居た。春先に見合った袖のないダウンジャケットに、カラージーンズ。いつも通りの寝ぐせとも取れる髪型……今日は少し形がいいから、整髪料を使ってきたのだろうか。
 


  「映画の撮影ですか。壁に寄りかかって本を読むなんて人、初めて見ましたよ」
 


「座る場所がないんだ。本を読むくらい、少しでも楽な体勢で読みたいって思うのは普通じゃないの?」
 


 僕は老人と海を閉じ、少しだけ悪戯っぽく言った。
 


「まぁ、そうですけど……でもここで小説を読む人はそういませんよ。ただでさえ、小隊長目立つんですから」
 


「僕は別に他人の眼は気にしないよ。それに、なんで僕が目立つのかな? 僕、変な格好してる?」
 


 自分の服装に目を落とす。特に不自然はないと思う。ライダーズジャケットにジーンズとブーツ。たぶん違和感はないと思う。
 


「いえ、不自然じゃないですよ。よく、似合っています」
 


「お世辞、ありがとう。それとね、隊内じゃないから、小隊長はおかしいと思うよ。別な呼び方だとありがたいな」
 


 彼はしばし考えるようなそぶりを見せる。僕を小隊長以外で何と呼ぶかを。それが僕にとっても気になるし、少し楽しみでもあった。
 そぶりを止め、逸らしていた目を再び僕に合わせた。どうやら、呼び名を決めたらしい。
 


「そうですね、それじゃ、一応年上ですから、先輩ってのはどうですか?」
 


「うん、それでいいよ。でも、一応年上の、一応って部分が気になるな。僕って、年上に見えない?」
 


 確かに僕は、残念ながら見方を変えれば、男の子に見えたり、女子中学生にも見られたりもする。年上に見られなくともおかしくはない……むしろ、僕の年齢を正確に当てたほうが不自然かもしれない。
 かと言って、僕はそこまで年を取っていない。さらに年上と言っても、僕と彼との年齢の差は僅かでしかない。その上、彼は僕よりも年上に見えるのだ。だから一応年上、と言ったのだろう。
 それを解っていながらの、この問いかけは少し酷いかもしれない。僕の性格の悪さを体現しているのかもしれない。さて、彼はどの様な反応をするのだろうか。困惑? いやそれはないだろう。だとしたら……
 


「ええ、まあ。見た目が幼いですからね。下手すれば、俺と先輩を並べば、兄妹に見られるんじゃないですか」
 


 そうだ、彼はほとんど思ったことを正直に話す。性格は別として、言動には裏表がない。
 それにしても、兄妹と言うのはなかなか酷いのではないだろうか。
 


「それで? どこに行くの? 言っておくけど、僕は君に任せるつもりで来たからね。何も考えてないよ」
 


「そこら辺は大丈夫ですよ。誘ったのは俺ですからね。第一、先輩がこういう所、来るとは思えないですし」
 


 これは、馬鹿にされているのだろうか。確かに、僕はこういう所はあまり来ない。いや、全く来ない。服だって、少し離れればそれなりの店があるし、バイクのパーツだって、わざわざ都心に来る必要性はない。
 つまり、僕は馬鹿にされてもおかしくなかったのだろう。こういった場所では彼に任せっきりになるだろう。
 彼が僕を誘う。僕に不釣り合いな街へと。
 


 彼が最初に連れて行ったのは服屋だった。普通、こういうのは女の子が提案する場所ではないだろうか。その点から見れば、このような場所を思い浮かばなかった僕は、女の子としてどうなのだろうか。……僕としては、女の子っぽくない方がありがたいけど。
 そこで見せた彼の反応は正に、買い物で彼氏を連れまわす彼女のそれであった。彼は本当に男なのだろうか。女の才能を感じさせられる。実はホルモン剤か何かを投与して、今の姿に至った元女とも言うべき、現男なのだろうか。
 自分の突飛な妄想に近い想像に頬を緩める。
 ふと、僕は考える。ここに居る僕は、果たして本当に僕なのだろうか、と言う疑問。僕が寝ている間、大多数の人間が眠る夜中に人類は消滅してしまい、今、僕たちが居る場所は死後の世界ではないのだろうか。死後の世界は、生前の世界と何ら変わりないから、皆自分が死んだ事に気が付かない。そして、死後の世界で自殺した人々は自らが死んだ事に気が付いた人々なのだ。
 なら、死後の世界で死んだらどうなるのだろうか? その時点で本当の死を迎えるのだろうか? 本当の死とは何なのだろうか? 再び生前の世界に戻るのだろうか? いや、死後の世界の死んだのであれば、その死後の世界が生前の世界にあるのだろうか?
 意味のない思考をメビウスの輪の様に巡らせる。僕の悪い癖だ。
 


「何、考えてるんですか?」
 


 僕の深く考えていた顔に気がついたのか、ハンガー片手に問うてきた。
 


「変なことをね。聞いて楽しいことじゃないよ」
 


「さっき読んでた小説の結末ですか?」
 


「ううん、違うよ。第一、あれはそんなどんでん返しな結末じゃないと思う」
 


 少なくとも、老人と海はそんな感じだ。あまり、結末を考え込む様な話じゃなかった。
 僕は思考を切り上げ、彼に付き合う。と言っても、僕には彼ほどに服などに詳しくないし、興味もない。ただ、適当にひとつ選び、その他は店員任せにしているだけだからだ。
 彼がどちらがいいか、どの色がいいかと、僕に聞いてくる。その度、適当に笑みを作り、適当に受け答えをした。彼自身は僕の答えにそう、期待していないらしく、僕が支持した色を選ばない事が多々みられた。おそらく、僕を退屈させない為の気遣いだろう。
 そんな気遣いをしてくれるのはありがたいが、率直なところもう、既に飽きていた。それは僕にこの様な事に興味がないからだろうか。
 僕は興味を持たない。人生の中で蛇足となるもの全てに。むしろ人生全てに。そもそもその人生自体、スタイリッシュに切りつめてしまえば、蛇足にしか過ぎないのだから。
 人間は本能を理性に支配されている。人間以外の生物は理性なぞ存在しない。だから、生きる事に愚直なまでの執念を見せる。しかし、人間はどうだろうか。生きることに素直ではなく、自分で命を断とうともする。
 生きようとする本能が、死のうとする理性に負けたために生まれた事象。人間以外に自殺はしない。理性がないからだ。あるいは、本能に対して、あまりに矮小な理性しかないからだ。生物とは本来本能の塊である。
 だとすれば、人間はその理から外れている。本能を助長するように作られた理性が、本能より上回る力を得たからだ。システムがプログラムに支配される、本末転倒の事態。
 そう、人間とは理性によって操られるマリオネットにしか過ぎない。生物として破綻しているのだ。
 だからこそ、無意味な行為に魅せられる。生存のためには無意味な事を好み、それを愛する。僕はそれが愛せない。つまらない女だ。ならば無駄な事を愛せない僕は破綻しているのだろうか?
 それだとしたら、僕は人間でも破綻して、人間である以上、生物としても破綻している。しかし、僕は人間として破綻しているのなら、僕は何者だろうか? 二重の破綻? それとも、破綻の破綻は健常?
 そんな事には結論が出ている。僕は僕自身の事を考える。これは理性が働いている証拠だろう。
 僕は僕自身でしかない。ただ一人の、日本人の女として存在している。
 そう、僕は死ぬために今を生きている。全ての生物が共有する目的のために。
 



 彼の買い物が終わり、僕たちは喫茶店に入った。もちろん、僕の知らない店。つまり、彼の知る店である。
 そこで僕は紅茶を頼み、彼はコーヒーを頼んだ。クラシックと食器のあたる音、そして人の声が交る飲食店特有のBGM。クラシックの曲名は……確かメルチェッロのオーボエ協奏曲だったか。音楽に乏しい僕でも曲名が理解できた。
 店内は混雑しているという表現では不適切だが、逆に空いているわけでもない。着席率七割、いや、六割と言ったところか。まばらと言うには多すぎるくらいだ。
 僕らが座っているのは窓際の席で、ガラスの外側には人がせわしなく通過する歩道が見えた。紅茶とコーヒーが来るまで、何一つとして面白くはないのだが、僕は窓の外を眺めた。
 髪の毛を染色した若者、春先にも関わらず露出度の高い服装をしている女、群れをなして歩く中年女性、礼服と区別のつかない服装をしている男、様々な人間が通過している。たまに本物の外国人が通るが、僕の目には彼らが異国人に見えた。いや、僕が異邦人?
 彼らは僕と対極に居る人間だ。多分、人生を楽しみ、謳歌している。僕みたいに、楽しむ事を見つけられないつまらない人間ではないだろう。そう、僕が異邦人という表現はあながち間違いじゃないかもしれない。
 では、彼はどうだろう。僕と同じ側であろうか。それともあちら側か。それともどっち付かずか。
 僕の評価はあてにはならない。僕は彼が普通の人間からすれば異常とも言える職業に就いている事を知っている。それに彼は僕の部下だ。そんな状況下で、正当な評価を下すというのは、多分に難しい。
 それでも……それでも、僕の評価をもってしてもだ。仮に彼が僕の居る側だとしても、どちらにせよあちら側に近い存在と言うのは間違いないだろう。少なくとも僕よりは、そして、もしかしたらほとんどあちら側に近い存在かもしれない。
 黒ネクタイと同色のカーディガン、エプロンのウエイトレスが紅茶とコーヒーを運んできた。その後、マニュアル通りの言葉を述べた後、僕らのテーブルから遠ざかった。
 


「先輩、何も買いませんでしたね」
 


 早速コーヒーに口を付けた彼は、カップを持ちながら問うてきた。どうやら、ミルクも何も入れないで、そのままブラックで飲んでいるようだ。
 


「うん。君の買い物だったし、何より買いたいものがなかったんだ」
 


 僕は紅茶に砂糖を入れながら答えた。彼がブラックで飲むなら、どういうわけかは解らないけど、僕はストレートでは飲んではいけない気がした。わけはない、気分の問題。多分さっきまで、彼がどちら側の人間かを考えていたせい。 
 


「別に行きたいところがあれば言っても良かったんですよ」
 


「ありがとう。でも、そんなにここに詳しくないし、行きたいところもなかったんだ。全く、僕はつまらない女だね」
 


 彼はカップを置き、ふと笑った。何か僕が面白い事でも言ったのだろうか。特に僕は面白いことを言っていない気がする。
 


「どうして笑うのかな? 僕、なんか変なこと言った?」
 


「いや、そう言うかな、と思った言葉を本当に言ったものですから、つい」
 


「へぇ。どの部分が想像通りだったの?」
 


「詳しくないし、行きたいところもなかったんだ、ってところですよ」
 


 確かに僕が言いそうな言葉だ。それに、彼の想像した言葉と似たものを今日僕は恐らく何度か言っているのだろう。
 彼はもう一度軽く笑ってから、コーヒーを啜った。対照的に僕は紅茶に視線を落とし、それに映る僕の顔を見た。年相応に見えない、幼いという表現が似合う顔だ。見てもあまり面白くなく、また自分の顔を見るのもそう気持ちのいいものではなかった。
 クラシックはオーボエ協奏曲からロドリーゴのアランフェス協奏曲に変わっていた。……これは第一楽章だったろうか。第二楽章は暗い曲調だったと記憶している。
 僕は一度紅茶を啜った。少し、砂糖を入れ過ぎたのかもしれない。紅茶の香りよりも若干砂糖の甘さが目立った。温かいうちでこの甘さだから、冷めるともっと甘くなるだろう。早く飲みほした方がいいかもしれない。
 ティーカップを揺すると、砂糖の濃度の差異によって陽炎のようなゆらぎが見えた。これは屈折率の違いから生じるものだったか。それほどにまで砂糖を入れてしまったらしい。
 


「君は、こういった店によく行くの?」
 


 ティーカップをソーサーに置いて、純粋な興味から来た疑問を彼にぶつけた。彼は空いた時間をこのような店で潰すのだろうか、あるいは別の潰し方はあるのか。そういった興味だ。
 彼はしばらく中空に目を泳がして思案しているようだ。店内の天井にいくつかぶら下がっているシーリングファンでも見ているのだろうか。それにしても、こうやって長考されるとは予想外だった。僕の質問の仕方がまずかったのだろうか。
 空を飛んでいた彼の視線は地上に帰還し、僕を捉えた。どうやら、考えがまとまったらしい。
 


「少なくとも先輩よりは」
 


 満面の笑みを浮かべて答えた彼。長く考えてその答えはいくらなんでもないだろう。なんだか肩透かしを食らった気分だ。
 僕より行くというのは当然だろう。このような場所に興味がないのだから。それとも彼は僕が喫茶店などによく行くような人間に見えるのだろうか。
 彼は僕が少しがっかりした表情を見てか、彼は満面の笑みから苦笑いに表情を換装させ椅子の背もたれに盛大に寄りかかった。
 


「頻度で言えば、月に一回、二回ですかね。多い方かもしれません。それにしても、先輩。怒りました?」
 


「怒ってはないよ、怒る理由がないからね。でも、少し期待していた分がっかりな答えとは思ったかな」
 


 僕が砂糖を入れ過ぎた紅茶を啜ってからそう答えると、彼が今度は声を出して笑い、店内中の視線を集めた。クラシックと話し声の合わさったBGMが一時的に変わり、話し声が彼の笑い声に置換された。
 他の客の視線に構わずひとしきり笑った後、彼はにやけ顔のままコーヒーを啜った。苦さで笑いをごまかすのだろうか。
 


「今度は何が面白かった? 他の客が君の事見ていたよ」
 


 その言葉を言った後、その中に不機嫌な韻を含んでいたことに気が付き、自分のことながら少し驚いた。一体僕は何に対して機嫌を損ねたのだろうか。我ながら解らない。
 


「いえ、先輩ががっかりした顔が子供っぽかったのでつい。先輩、なかなか顔に表情を出しませんから」
 


 どうやら韻だけではなく表情にまで不機嫌さが浮き出ていたらしく、彼は笑いを噛み殺しながら弁解した。その様子からするとコーヒーの苦みで笑いを殺すことは失敗したようだ。
 彼を怪訝な目で見ていた客は笑い声が聞こえなくなったからか、もう奇異の視線をこちらに向けてはいなかった。再びクラシックに雑談が合わさったBGMに戻る。クラシックはアランフェス協奏曲から別なものに変わっていた。僕の知らない曲だ。
 客からの奇異の視線は受けなくなったものの、今度は変わって、カウンターの奥に陣取る老年の店員の警戒の色の強い視線を受ける事になった。ここからカウンターまではそれなりの距離がある。多分、二十メートル程。
 湯気が上らなくなった紅茶を一度啜った。温度が低くなり、熱さで多少はまぎれていた砂糖の甘さがさらに目立っていた。砂糖の印象が紅茶の香りを凌駕している。もう、香りを楽しむ以前の問題だ。
 彼のコーヒーカップを見るとコーヒーの黒は消え失せ、カップの底が覗いていた。底面のへりに僅かにコーヒーがこびりつき、不規則な茶色い円を描いていた。
 僕は紅茶を飲む速度を速めた。出来れば彼の速度に合わせたい。今日は全てを彼に任せてきたのだから、これくらいは彼に合わせるべきだろう。最後の方は紅茶と言うよりむしろ、砂糖水を飲んでいるような錯覚に陥った。
 


「先輩、もう行きますか?」
 


「君の好きな時に。もう少し居たい?」
 


「いや、先輩の好きな時に」
 


「そう? じゃあ僕はもうここから出たいかな。君が大笑いしたせいで、さっきから店員にマークされている気がするからね」
 


「それは大変ですね」
 


 彼はにっこりと笑ってから、他人事のような口ぶりでそう答えた。それから、彼は伝票をつかんでシートから腰を浮かした。それを見て、僕も席を立つ。
 


「俺が払いますから。先輩、払わなくて大丈夫ですよ」
 


 僕が財布に手を伸ばそうとした矢先に彼に釘を刺された。年上として少しみっともない気がするが、既に彼は財布をつかみ、レジへと向かい歩き出していた。つまり払う体勢を整え終えたと言うことで、僕が払おうにも手遅れの状況と化していた。
 仕方がなくレジに並ぶ彼に外で待っていると伝え、僕は一足先に喫茶店から退出した。
 外は相変わらず人通りが多く、一歩でもその流れに足を踏み出してしまえばそのまま、どこかへと流れてしまいそうだ。まるで川に足をすくわれるように。抗えば抗うほど体力を消耗し、疲れきって溺死してしまいそうだ。
 その流れに乗らないように僕は喫茶店の壁に寄りかかり、何を見るわけでもなく、ただぼうとしていた。ぼうとしていると言っても、視線は時折人混みの間から見える歩道のタイルを捉えており、そこにへばりついたガムだとかシミだとかを見ていた。何も考えずに。
 


「あれ? ビソウちゃんじゃね?」
 


 僕の耳朶を打つ男の声。喋り方にどこか下卑た印象を受けるのが印象的、いや、それよりも何故僕の名前を知っているのか? 僕にこんな喋り方をする知り合いはいないはずだ。
 沈んでいた視線を上昇させ、声の主に合わせる。目に映ったのはニヤケ面した男が五人、僕の目の前に立っていた。彼らは全員髪の毛をきつい茶色に染色しており、ニヤケ面と共に彼らを頭の悪い印象に仕立て上げている。
 ふと体に悪寒が走る。そうだ、僕は彼らを知っている。忘れもしない、忘れられない、最悪の記憶を植え付けた張本人達。
 


「やっぱりそうだ。ビソウちゃんだ」
 


「やっべー、懐かしい。俺達の事覚えてる?」
 


「髪の毛切ったんだ。やっべぇ、俺こっちの好みかも」
 


「まじかよ。お前、髪長い方が好きだって言ってたじゃねぇかよ」
 


 口々に勝手な事を話し、一同下卑た笑い声を上げる。
 黙れ。僕の前から消えろ。今すぐに。
 そう言いたいのに僕の口からその言葉が出ない。
 口の中が渇く。
 どうして?
 僕は怖いの?
 怖がってるの?
 銃を突きつけられても恐怖を抱かないのに、どうして?
 違う。
 これは恐怖じゃない?
 じゃあ、何だ?
 そう、屈辱だ。
 僕は悔しいのか。
 そうだ、悔しかった。あの時も。
 そして今も。
 彼らが僕に何かを話しかける。
 僕は聞き取れない。
 ただ脳内を一つの感情で支配されている。
 あの時の感情がフラッシュバックしている。
 


「先輩?」
 


 彼が喫茶店から出てきて、今の僕の状況をつかみ切れないのか、問いかけるようなニュアンスで僕を呼んだ。
 


「コイツ誰だよ?」
 


 彼らの一人、確かリーダー格の男が彼を見て、明らかに敵意と嘲弄を含んだ声色で仲間うちに問いかけた。表情は気持ち悪いくらいニヤケたままで。
 


「ビソウちゃんのカレシじゃね?」
 


「マジで!? あんな事されて男をまだ信じられるのかよ!?」
 


 時間が経つにつれどんどん彼らのアクション一つ一つが下品で馬鹿げて見える。再び彼らは大笑い。耳障り。
 


「先輩……こいつらは」
 


 彼がますます彼らに対して疑念を深めて……と、言うより訝しむという表現の方が適切か。訝しみを深めて僕に彼らの事を問うてきた。
 彼なら言ってもいいだろうか。迷う。しかし、その答えを出す前に僕の口は動いていた。僕の意思に反して。
 


「知りたい? 彼らはね、中学の時に僕をね……僕をね、僕をね、慰み者にしたんだ」
 


 彼らは下卑た笑いを突然止め、僕の方を見やった。驚愕の表情で。
 彼も僕を見る。茫然とした表情で。
 口が止まらない。言葉が次から次へと出てくる。どうしてだ。
 感情が僕の理性を超えている。止まれ、止まれ、止まれ。
 どうしてだ。
 理性的でいろ、僕は人間だろう。
 感情に支配されるな。
 なんの感情?
 本当に悔しいの?
 じゃあ、何?
 僕の意思とは正反対に動く体。
 まるで僕の体が僕の物ではないみたいに。
 口から出る言葉は伝える。
 鮮明にあの時の状況を。
 克明にあの時の感情を。v  やめろ。
 しゃべるな。
 考えるな。
 僕の理性はしゃべるなと命じる。
 僕という存在そのものがしゃべるなと命じる。
 なのに僕の口は僕の存在を否定する。
 視界が滲む。
 どうして?
 のどの奥に塩の味。
 どうして?
 ああ、そうか。
 僕は今泣いているのか。
 僕は悲しくないのに泣いているのか。
 どうして?
 


「私は……私は、私は、気が狂いそうだったの。ううん、狂っちゃった。気が……気が、気が。ううん、私自身がね、がらがら、がらがら、がらがらって音を立てて壊れちゃった」
 


 私?
 今、僕は何と?
 私?
 どうして?
 昔の呼称を。
 もう使うことのない、使いたくもない、使い方を忘れた一人称を。
 僕が僕じゃなくなっている。
 どうして?
 彼が、そして彼らが激しい口調で言い争っている。
 僕は聞き取れない。
 どうして?
 僕が泣いている。
 それを僕は見守る。
 どのようにして?
 僕はどのようにして僕を傍観しているのか?
 いや、違う。
 泣いているのは僕じゃない。
 泣いているのは私だ。
 だから僕じゃない。
 じゃあ、僕は誰?
 私って誰だ?
 僕は私?
 私が僕?
 わからない。
 彼と彼らがどこかへと歩みを進める。
 それに僕も追随し始めた。
 一体どこに?
 どこに行くのだろう?
 何のために?
 



 彼と彼らの向かった場所は人通りの極端に少ない場所、ビルとビルとの間、その壁に無造作に置かれた山となったゴミ、要するに狭い路地裏だった。
 好意的な空気は一切なく、それどころかまるで可燃性のガスが部屋中に充満したような緊張感をたたえている。何か外的な刺激があれば一瞬にして燃え広がり、爆発しそうな勢いだ。
 相変わらず僕の体は僕の意思に反して行動している。一番僕に従順であるはずの自分の体が言う事を聞かない。これほど歯がゆく、腹立たしい事はない。
 当然、体の自由と同様、未だに僕が音を聞きとることが上手く出来ない。声を出している事はなんとか聞き取れるけど、聴神経が脳に伝える情報は全て言葉として認識されず、ただのノイズとして僕に知覚させる。
 彼らが彼ににじり寄っている。何かを話しながら。表情はどちらかと言うと険しいが、そこに少しの嘲弄の色が混じっている為、どこか滑稽な印象を受ける。笑ってしまいそう。でも僕は笑えないだろう。今、僕の体は僕の物ではないのだから。
 唐突にリーダー格がポケットに突っ込んでいた手で、そのまま彼に殴りかかってきた。
 でも速度が遅いし、腰が入っていないために威力もさほどない。よほど当たり所が良くない限り、昏倒することはないはずだ。
 彼はそれをかわし、リーダー格の男の腕を軽く下方向に引っ張った。男は顔から一回転。しかし顔をアスファルトにしたたかに打つ前に、彼の膝が顔面にめりこんだ。昏倒。今度は反対、つまり背中をアスファルトへ向けリーダー格は傾いた。
 しかし、どうしてだろう。どうして彼と彼らが殴り合う必要があるのだろう。いまいち理解が出来ない。
 リーダー格がやられたとなって、他の連中に一斉に緊張感が走った。怒りの色を伴って。
 昏倒している一人を除いた四人が彼の周りのぐるりと取り囲んだ。一対四。確実に不利な状況だ。高い確率で彼はやられるだろう。
 僕が加勢すべきだろう。しかし僕の体は言う事を聞かない。それどころか、僕の意思とは関係のない言葉を口走ってさえもいるのだ。聞き取れない。鼓膜を通してならともかく、骨伝導によって聴覚神経に刺激を与える事が出来ていないとはどういうことだろう。
 でも僕が聞き取れなくとも多分私は聞き取れている。本当に誰なんだ、私は?
 彼ら四人は彼を取り囲んだまでは良かった。でも、その後がお粗末だ。タイミングを図るために一人一人に目配せをしていたのだ。これが致命的なミスとなる。
 彼はまず一番近くに居た男の鼻を目がけて一発肘打ちを喰らわした。鼻骨を砕いたろう。これでしばらくあの男は動けない上に、呼吸もままならなくなる。ゴミ袋の傍らで悶絶。これで一対三。やや状況好転。
 三人は呆気にとられている。圧倒的優位な状況下から、どうして自ら不利な状況に落とし込むのだろうか。
 次に彼は悶絶している男の隣に無造作に積み上げられたゴミ袋を一つ、対角上に居る男の顔面目がけて放り投げた。直撃。つまり、目つぶしの目的。その隙に彼は静かに、しかし素早く駆け寄り、男の股間を彼のつま先をもってして蹴り上げた。膝から崩れ落ちる男。崩れ落ち、うずくまる男に彼は、その頭を蹴り上げた。
 男の体は一瞬中に浮き、そのまま後ろへと倒れこんだ。昏倒。二人目だ。一対二。状況はかなり好転。
 立て続けに、それも僅か数秒の間に三人を行動不能に陥れた事実に、彼らは顔を蒼白にさせ、残る二人は互いに顔を合わせた。表情は驚愕、あるいは恐怖といったところであろうか。
 彼が一歩、二人の方向に向け歩みを進めると、彼らはその見合わせた顔を同時に彼の方向に向け、動向一つ一つを注視した。様子から伺うに彼らに攻撃の気配は見られない。むしろ、どのタイミングで逃げ出すかを見極めているような印象を受ける。
 また一歩彼が近づくと、今度は反対に一歩後退する彼ら。一歩、また一歩と彼は距離をつめるべく歩みを進めるが、その一歩ごとに、いまや状況が完全に逆転してしまった彼らが比例して距離を開けるべく後退をした。解決のしないイタチごっこだ。
 やがて彼が一瞬、鼻を砕いた男に視線をわずかに動かすと、そのアクションを見つけた彼ら二人は彼に背を向けて、一目散に逃げ出した。
 地面を蹴った音に反応してかしまいか、今の僕にはよくはわからないが、彼は二人が逃げ出す気配を感じるや否や、一瞬にしてその視線を彼らに戻した。が、彼が二人を追う気配はまったくといっていいほどに感じられない。逃げるなら逃げろ、そういった感じだ。
 これで彼の相手となる人間は誰もいない。一対零。彼の勝利。誰が為の勝利だろうか。いまいちこの乱闘の意味と、勃発した理由がわからない。何故だ。そのwhyが頭の中を支配する。
 場に可燃ガスのように充満していた緊張感は姿を消し、代わりに普段から路地裏に存在する、どこか怪しい雰囲気が徐々に戻り始めていた。彼は僕の方に振り向いた。表情は柔らかい。最初にやられて昏倒している男を横目に彼が僕に近づこうと、第一歩を踏み出したその時だった。
 しゃがみこみ、鼻を潰されたダメージで苦しんでいた男が突然起き上がり、僕の方へと駆け出した。僕は体を動かそうとする。しかしいまだに体は僕のコントロール下には置かれていない。ものすごい勢いで近づく男の顔。鼻を潰され、口ひげのように伸びた血糊。表情は怒りともほかの感情ともつけ難い表情で一杯であり、まるで安っぽいホラー映画に出てきそうである。
 僕は男に背後を取られ、首に左腕を巻きつけられた。僕の視界の右端、男の左腕の先にある、左手に握られたものを僕につきつけている。
 殺意を先端から放出するそれは、コンバットナイフの類である折りたたみナイフ、通称バタフライナイフと呼ばれるものだ。いつ取り出し、どこに隠し持っていたのだろう。
 その光景を見て、一度柔らかく溶かした表情を再び硬く固めた彼は、僕に歩み寄るのをやめて、苦々しげに僕を見ていた。いや、正確には僕の背後を取り、僕にバタフライナイフをつきつける男か。
 


「動くな! 動くなよ」
 


 唐突に僕の聴力が回復。ついで半分失われていて、首に何か巻きついているな、その程度でしか働かなかった触覚を始めてする感覚も、今ではその巻きつけている腕の形と服のしわの形まで知覚できる。
 


「動くなよ、色男。そうすっと、愛しのクラモチの喉がばっさりだからよぉ」
 


 鼻が潰され、こもった声で、しかし相変わらず下卑た口調で彼に警告した。警告というよりも下卑た口調とアクセントが強すぎるせいか、挑発という表現がぴったりかもしれない。
 右手を握り締める。運動もできる。同様に左手もチェック。クリア。口の中で下も自由に動く。僕に体のコントロール権が戻ってきた。
 きっかけはわからないが、とにかく今の状況からすれば好都合。状況はかなり好転したと言えよう。
 再び状況を確認。
 男はバタフライナイフを装備している。対する僕は何一つと装備していないし、原因不明の人格と身体の離脱とも言える症状のせいで、いとも簡単に背後を取られた挙句、拘束されてしまった。彼との距離はやや離れており、目測距離は十メートルといったところ。一息で男との距離を詰めるには無理がありそうだ。
 結論、状況劣悪。それでは突破方法は?
 僕の今の状態から状況を打破するには何をしたらいいのだろうか。まず、彼の視線には期待しないほうがいい。彼が来るより前に僕がダメージを負うだろう。
 もう一発男の鼻に一撃を加えるのは? おそらく効果的な攻撃だろうが、リスクが大きい。背面をと取られている今の僕の状況で鼻を打つというのは、少しばかり大きなアクションが必要となる。
 感づかれて、僕が先に一撃を食らう、という状況は十分に考えられる。
 再び僕は男の握るナイフを眺めた。刃渡りはざっと十センチくらい。刃を柄に収納する特性上、バタフライナイフは刀身より柄が長い。僕はナイフの絵を視界に入れた時、現状を打破する突破口を見つけた。
 どういうわけか、多分男がナイフを使い慣れていないのだろうが、人差し指を一本、一直線に立てていた。
 どうしてわざわざ指を一本立てるのだろうか。力は入りにくく落とす可能性が増す上に、攻撃を受ける部位を一つ増やしているようなものだ。でも、今の僕にはちょうどいい。
 僕を拘束して僕や彼より優位に立ったつもりだろうが、詰めが甘い。僕は男がわざわざ作ってくれた隙に、思い切り付け入ることにした。
 


「残念だけど」
 


 僕は声を出す。声帯も、肺も僕の指揮下に戻ってきたようだ。不自由はない。
 なら大丈夫。何も問題はない。怯えるな、思う通りにやってやる。
 


「君に僕を殺すことはできないよ」
 


 一本直立した男の人差し指を手全体で握り、間髪入れずに男の手首へと押し込む。男の手首と人差し指がくっつけるようなイメージ。ヘアピンコーナーを作るようなイメージ。
 一瞬遅れて手の中に何かが外れたとも折れたとも表現できる感触。刹那、路地裏に響く男の絶叫。
 僕を拘束していた腕が解け、僕の視界から男の体の一部が消える。そのワンテンポ遅れた後に背中から聞こえてきたのは、金属がアスファルトに落下して転がる音。断続的に、まるで先ほどの喫茶店のBGMのように流れるのは男の苦悶の色が濃い悲鳴。クラシックに比べてなんて品がないのだろう。
 振り向いて男の状態を確認した。男は猫が夏場に昼寝をする時のような、手足を同じ方向に投げ出した形に近い様子で、地べたに横たわっていた。
 男は右手で左手首を包み、その手首の先には手の甲に対し直角になった人差し指が見える。
 男から一メートル半位のところに、異形となった左手が先ほどまで握り締めていたナイフが転がっていた。柄が二つにわれ、ナイフというよりは工具はさみを見ているような感慨にとらわれた。
 ナイフを拾い上げ、柄を握る。もちろん男のように人差し指を立てるへまはしない。
 いつも使うサバイバルナイフと異なり、柄が細くて少し力を入れて使ったら簡単に壊れてしまいそうだ。それくらい頼りない印象を受ける。
 二つに割れる柄の間に刀身を収納させて、携帯能力に高めるとはいえ、使う側としては不安な要素が増えただけだと思う。これを好んで使う人間はよほどの物好きか、よほどのマゾヒストに違いない。後者はきっと、いつ壊れるかどうかの嫌な緊張感を心地よく感じているのだ。
 そんなナイフを片手に、僕は鼻から下をたくさんの血糊で赤に染め、おかしな方向に人差し指が向いている男に近づいた。
 何をするんだ、とも言いたげな意思が宿った男の視線が僕に飛ぶ。痛みにより表情は苦いものだが、眼光だけはある程度しっかりしている。もしかしたら、タフな男かもしれない。でも僕には関係ない。
 僕は視線にこめられた疑問を行動で答えた。ほら、僕はこうしたいんだよって言うように出来るだけゆっくりとアクションを進めた。
 男のそばにしゃがみ込み、手に握ったナイフを男の首元に持っていく。
 凶悪的な意思を持つ銀色に、男は息を飲んだ。先ほどまで僕に対して向けられていたナイフの先端から発する殺意は、いまや持ち主と受け手を変えた状況にある。
 


「詰めが甘いよ。弱点を増やしてどうするのかな? それに発想が安易だね」
 


 切っ先を軽く首の皮膚に当てながら僕は男に語りかけた。優位に立っていた自分が何故、こんな危機的状況にあるのか。それを理解させるために。教えたのは僕なりの皮肉でもある。
 後悔は先にたたない。ならば、どうして後悔は先にすることが出来ないだろう、と疑問を抱かせるまで恐怖を与えてやろう。どうやったら、後悔は先にたつのだろう、と矛盾した考えを持たせるまでの恐怖を、そしてそれが矛盾だと気が付かないまでの恐怖を。
 ナイフに力をこめる。掌に伝わる皮膚を裂く感触。伝う赤い血。恐怖一色に染まる男の表情。僕はまだ皮を切っただけなのに。筋肉は切ってないのに。死ぬことはないのにどうしてそんな顔するのだろう。
 


「このまま力を込めればどうなると思う? まず死ぬかな。でもね、即死までにはいかないんだよ。そうだね、まず気管が切れる。それ自体は大したことないんだ。問題は、流れた血がどこに行くか。どこに行くと思う?」
 


 必死に首を振る男。そのたびにナイフによって新たな傷が出来るのだが、そんなことはお構いなしに首を振った。恐怖が痛みを超過しているらしい。
 


「そのまま気管に流れ込むんだ。そうすると息が出来なくなるよね? 窒息死か失血死か。そのどちらか。ねえ、君はどっち? どっちで死にたい?」
 


 僕は笑い顔を作る。その笑顔には思い切りの悪意を込めて。
 男の顔が一気に青ざめる。目には涙を浮かべ、息を荒げた。鼻を潰されたために、その呼吸音は豚のようだ。掠れて、掠れて、掠れて。本当に豚のようだ。
 いや、本当に豚なのかもしれない。だとしたら……だとしたら、屠殺してもいいよね? 人間じゃないのなら、殺してもいいのではないか。いや、どちらにせよ僕は人を殺しているじゃないか。
 ならどうする? このまま力を入れてしまおうか?
 じゃあ、なんで殺す?
 その理由は?
 豚なら食べるために殺す。
 人なら任務のために殺す。
 それぞれ、理由があるじゃないか。
 じゃあ、目の前にいる男を殺す理由は?
 私怨?
 何の?
 あのことの?
 私怨ならそうだろう。
 実際僕はこの男を初めとして、奴らを殺してやりたい。
 ならいい機会ではないのか?
 でも、それで何になる?
 それで僕の気は晴れる?
 多分晴れない。
 むなしいだけじゃないのか?
 永遠に消えない屈辱なのだから。
 晴らせない屈辱なのだから。
 そんなことしても無駄でむなしいだけだ。
 無駄ではないのか。
 そうだ、無駄だ。
 僕はスタイリッシュに生きる人間ではなかったのか?
 なら……
 


「じゃあね。さようなら」
 


 その言葉と同時に刃を男の喉元からはずし、ナイフの柄の先を顎めがけて振り落とした。直撃。しかしジャストミートとはいかず、ややかすめぎみとなる。これは狙い通り。そうすればしばらくは、軽い脳震盪で立てなくなる。
 でも念には念を。ナイフを握っていない方の手で、男の頚動脈を掴む。男は抵抗しようと体を動かす素振りをしたが、上手く体が動かせないようだ。本当に狙い通り。
 指に男の脈動が伝わる。それが徐々に早くなってゆく。早くなる脈拍と比例して、男の顔も見る見るうちに赤くなり、やがて糸の切れた操り人形のように、だらりと弛緩した。
 まだ、指には脈動が伝わる。離す。
 僕は立ち上がり、周りの状況を見渡した。僕の足元に転がる男を含めて、狭い路地裏に男が三人昏倒している。それぞれ強烈な一撃を食らったが、たまに痙攣染みた動きをすることから、死んではいないだろう。
 そして僕は倒れている男たちの中で、唯一直立している彼は、形容する言葉が見つからない、微妙な表情をしている。
 


「ごめんね」
 


「何がです?」
 


「こんなことに巻き込んで、だよ」
 


「いえ、大丈夫ですよ、個人的にこいつらに腹を立てていましたし、それに」
 


 彼は一度言葉を切って、目を瞑り深呼吸をした。再び目を開けたときには、さっき僕が見た形容不能な表情は跡形もなく消え去っていた。
 


「それに、先輩が泣いていましたから」
 


 僕が泣いていた? そうだったか?
 ああ、そうか。僕の体が、僕の理性による支配を離れて、別なのにかに支配されたときのことか。非現実的な話だけど、そう形容するしかない話だ。
 それにしても、そんなことで本当に乱闘を起こしたのだろうか? かなり疑問に感じる。
 


「それが理由? それで乱闘を起こしたの?」
 


「いけませんか?」
 


「因果性は感じないけどね。僕ならともかく、どうして君が?」
 


「どうしてでしょうね。自分でもわかりません。とにかく、殴らなきゃいけない気がしたんです。それよりも」
 


「うん?」
 


「それ、いつまで持っているんです?」
 


 僕がいまだに持っているバタフライナイフを目で示しながら彼が問うてきた。そういえばまだ持ったままだった。
 少し、男の血が付いて汚い。それに、これはあの男の所有物だ。僕がずっと持っている道理もないし、気分も害しそうだ。
 でも、ここで、これで僕の頚動脈を自分自身で切ったらどうだろうか。僕は死ねるだろうか。
 唐突にそんな考えが浮かんできて、自分のことながら驚いた。死にたいと思って、それに見合う行動を取ったことはいくつでもあるが、こんな風に外出先で、それもこんな外で死にたいと思ったのは初めてだ。
 どうしてそんなことを思ったのだろう。あの時のことを鮮明に思い出させられたから? そうなのだろうか?
 早くナイフを手放そう。本当に頚動脈を切りかねない。誰かの目の前で自殺するなんて失礼だ。
 刃を柄に収納させた後に、持ち主である男のそばに放り投げる。柄だけとなった、なんともまぬけという言葉が似合うそれは放射線を描いた後に、金属の転がった音を立てて落下した。
 


「さて、先輩。気晴らしに何か食べに行きませんか?」
 


 彼が満面の笑みで誘ってきた。正直、ありがたい。いつもと変わらずに接してくれてありがたかった。
 今までと違う対応のされるのは嫌だった。まるで、僕を腫れ物扱いされるのが堪らなく嫌だった。
 でも、どうしてだろう。トラウマには違いないのに、どうして僕はこうも堂々としていられるのだろう。不思議だ。もっと壊れていてもおかしくないのに。
 


「そうだね。それがいいかな。場所は君に任せるよ」
 


 こんな変なことに巻き込んでしまったのだ。彼の好きな通りにさせるくらいしないと、彼に申し訳がないだろう。僕がそうしてくれと頼もうにしろ、そうでないにしろ、面倒なことの大本の原因は少なくとも僕にあるのだから。
 僕の同意を聞いて彼はいつも通りのスマイルを浮かべてから、行きましょう、とそう告げた後に、体の正面を路地の出口へと向け、歩き出した。
 それに追随し、僕も足を動かす。三人の男が昏倒し、不気味な静けさを孕んだ場所から抜け出すために。
 歩きながら僕は考えた。さっき起こった、理性と身体の乖離についてだ。
 あの時僕はどうしていたのだろう。僕の過去を勝手に語りだす僕。理性的で内面的な僕は過去を口に出すなと考え、それを体に命じていたつもりだ。しかし、感情的で外面的な僕はそれを拒否し、勝手に語り続け、挙句、涙を見せるまでの感情の高ぶりを見せた。
 しかもその後、視覚を除く五感の自由がほとんど奪われ、さらには体のコントロール権を、僕でない僕に奪われてさえもいた。
 その上、感情が暴走して、僕でない僕が自分を指す一人称を使うとき、なんと言った? 私といったのだ。僕でない僕とは私なのか?
 そして私は誰なんだ?
 遠い日にして捨てた女としての僕?
 だとしたら、僕自身が私なのか?
 じゃあ、なんで体の自由に動かせなくなったのか?
 いや、むしろ僕は誰なんだ?
 僕は僕自身ではない。それは僕が、この午前中に思案した事柄の結論であった。
 でも、それはこの午後の出来事によって否定された。
 僕は僕であり続けるけど、時々僕は僕でない私になって、僕の体を奪ってしまう。
 僕でなくなった私は僕よりもずっと感情的で、ずっと女性的で、とても僕に対して意地悪だ。
 私は僕をあざ笑う。ほら、あなたの自由は私が奪ったのよ、でも目だけは共用させてあげる。あなたの体を私が好きに使うところを見てて、優しいでしょ? と言いながら。
 僕は僕自身だ。そう思っていた。でも、悔しいくらいあっさりと否定された。
 僕の中に僕ではない私が居て。
 たまに僕を食い破って図々しい顔で現れる。
 その上、僕を透明な私に閉じ込める。
 私がしていることを僕に見せびらかせて。
 気が済むと僕をたたき出して、僕の中にまた潜り込む。
 だから僕が動くと音がする。
 僕と私がぶつかって。
 からから、からからと音がする。
 とても小さくて僕にしか聞こえない。
 からから、からからと音がする。
 とても小さいけど、でもとてもうるさい。
 その音のイライラしそう。
 ほら、今だって。
 からから、からからって音がした。
 僕の心が動くたびに。
 からから、からからって音がした。
 冷たくて。
 かたくて。
 寂しくて。
 そんな音がする。
 この音はいつか消えるの?
 もし消えたとき、それは何を意味するの?
 どちらかの消失を意味するの?
 消えるのはどっち?
 消えたいと思っているのはどっち?
 消えてしまえとお互いに思っているの?
 消えるのは僕の中に居る私?
 それとも。
 いまこうして考えている。
 いま中に私が居ると感じている。
 いまその音を聞いている僕?
 どっちだ?
 どっちが本当の蔵持美宗?


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